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『関心領域』――幸せそうなホームドラマ、音さえなければ。

※映画の内容に触れているので、内容を知りたくない方はご注意ください。

5/24に公開された映画『関心領域 The Zone of Interest』を公開初日に見てきた。

この映画は、ホロコーストを題材に製作されたものだ。といっても、暴力的な描写や、直接的な死の描写はまったくなく、とある家族の日常が描かれるのみだ。

でもその家族は、アウシュヴィッツ強制収容所の隣で暮らしている。彼らは、所長であるルドルフ・フェルディナント・ヘスとその家族なのだ。

一見普通の日常だが、生活の端々にホロコーストの影が見え隠れする。日々の食糧は囚人であるユダヤ人から届けられるし、所長の妻であるヘートヴィヒが鏡の前で羽織るコートは、ユダヤ人から奪ったものだし、子どもはユダヤ人の歯を観察している。

会話からも、彼らがすべてを知りながら、積極的に加担していたことが感じられる。

「このダイヤどこで手に入れたと思う?歯磨き粉の中よ」「ユダヤ人って賢いのね」といった会話がなされていた。映画で聞いていて(というか字幕を読んでいて)も気持ち悪かったけど、書いているとなお気持ち悪くなってきた。

あとから知ったことだが、ナチズム研究をされている田野先生のこちらのツイートを見て「カナダ」についても調べてみたらより気持ち悪くなった。

こちらの記事などで理解を深めてからいくと、あのシーンをより味わえるかもしれない。より具合が悪くなるかもしれないけど。

こうした会話や映像でのホロコーストの仄めかしも十分不気味だが、なんといってもこの映画の怖さ、気持ち悪さを形作っているのは音だ。

家族が幸せそうな時間を過ごすなかで、聞こえる焼却炉のボイラーから発生しているのであろう音、銃声、悲鳴、怒号。

そして、その音が聴こえていないかのように生活する家族たち。

さらに背筋がゾッとしたのが、こわいと思いながらも見ている自分も少しずつ慣れていくことに気づいたことだ。最初は驚いたその音も、何度となく、一定時間聴いていることで、少しずつ、少しずつ珍しいものではなくなっていく。そうして彼らも、何も思わなくなっていったのかもしれない。

映画の終盤、場面展開の際、黒い背景の真ん中に小さな白い穴が空いた、何かの覗き穴のような映像が挟まれる。あの映像には「お前の“関心領域”はどうだ、彼らと同じようにとても狭いのではないか」と問われたようで、心がギクリとした。

そしてエンドロール。今までに見たエンドロールのなかで一番不穏で不気味だった。サイレンのような、人の叫びと悲鳴が幾層にも降り重なったような音楽が流れる。

あれは、誰かの“関心領域”に入れず、苦しみや悲惨な運命を無視され見過ごされたために、死ななければならなかった多くの人の声のように感じた。そうした人は、ホロコーストから80年近く経つ今でも、生まれ続けている。

では、わたしたちはどうすればいいのだろう。

わたしはまず、こうした映画を通じて、自分たち人間の持つ残虐性を理解するところからではないかと思う。この映画からも分かるように、彼らはサイコパスのような特殊な悪人ではない。家族には優しく、日常を守ろうとする一見普通の人だ。そんな彼らも、自分たちと無関係だと思う人間に対してであれば、ナチの人々のように無関心にも、残虐にもなれてしまう。

人間は、「人間とは結局自分に関わるものや、仲間だと判断したものにしか優しくなれず、その枠外にいるものにはどこまでも無関心になれるグロテスクな生き物であること」をこうして突きつけられ自覚することでしか、そうしたどうしようもない生物であることから脱却できないのではないだろうか。

自覚したとて脱却できるか怪しいけれども、少なくとも自覚しないよりはマシな世界になると信じたいし、そのためにも自分たちの汚い部分、見たくないものを見ることを避けないようにしたい。改めてそう感じる映画だった。


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