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バイクで日本をゆっくり一周するモンスターの物語をドラマ化することで悲しきモンスターを人間化しようとする壮大な(そしてふざけた)実験の顛末についての覚え書き

 「日本をゆっくり走ってみたよ」に出てくる吉本浩二先生と称した吉本浩二(主人公)はマジでキモい。どこまで意図したかは分からないが、多分、意図した以上にキモくなっていると思う。
 例えばだが「俺は面白いやつでーす!」とアピールしてくる奴はだいたい面白くない。「私ってちょっと変わってまーす!」というやつはだいたい別に変わってないし「闇属性」と自称する人はだいたい昼日中を普通に歩いている。
 多分だが、吉本浩二先生は自らの異常性をそれほど自覚せずに「日本をゆっくり走ってみたよ」を書いたと思う。「俺そんなに変わってないよ」という奴が一番異常な可能性があるのだということをまずはお伝えしたい。

 「このキャラ、キモいでしょう!」とこっちをチラチラ見ながら言ってくる分には、実は受け手とのコミュニケーションが成り立っている。お互いの領域の中でのキモさを力加減しながら様子を窺いつつやりとりしているからだ。きちんとウケているかどうかを確認しながら調整してくる分には安心していられるというものだ。
 だが無自覚なやつは力加減を知らない。
 領域を平気で逸脱してくる。恐ろしい力で殴ってくる。
 「日本をゆっくり走ってみたよ」の吉本浩二(主人公)はそういう恐ろしさを無自覚に有した悲しきモンスターと言える。

 吉本浩二(主人公)がどのぐらい恐ろしい存在かを解説するよりも、実際にKindleか何かで読んで欲しいという思いがある。ちなみにアンリミに入っている。買っても全二巻だ。
 もう既に読まれている方も多いと思う。多いか?
 「こづかい万歳」で異常な他人をピックアップするようになった吉本浩二先生だが、色々なキャラに埋没しているが本人がかなりレベルの高い異常者であることが「日本をゆっくり走ってみたよ」を読めば伝わってくる。

・36歳独身でゴミ部屋みたいなとこに住んでいるまんが家が
・飲み会とかで何度か顔を合わせたことのある女性(Eさん)を突然「好きだ」と自らの中で勝手に解釈して
・地元の栃木に帰っているのを知っていながら「ツーリングの途中で寄りますからお時間あったらお会いしませんか」なぞと強引な口実を作って面会を持ちかけ東京から宇都宮までバイクで移動し
・その行為を「デート」と称し
・「告白しなければ」などと思い込んだ末に出来ないものだから(それ自体は人として正しい。なんで突然やってきて告白するんだ)「俺は強くならねばならない」などと異常者特有のムダに固い思い込みを発揮し
・「これから日本を一周してきます」「誕生日に帰ってきますので(その辺のしょうもない店で買ったしょうもないピアスを)着けてきてください」「俺は強い生き物になりたいんです(意訳)」などと意味不明な供述を繰り返し
・そして日本一周に出かける

 という、まんが家と雖ももっと人と接する機会を意図的に造らなくてはならないのだなと痛感させてくれるエピソードからこの物語は始まる。全部キモい。全部シリアルキラーの発想。

 吉本浩二先生は「ちょっとキモいよね」ぐらいの意図はあったと思う。だがこちらに言わせると「かなりキモい」というかもう早々に法執行機関が動くべき存在だと俺は思う。キモいでは済まされないレベルに達している。
 気になった方は是非読んで欲しい。
 終盤、日本を一周したモンスターが宇都宮のEさんに徐々に近づいてくるところなど恐怖でしかない。
 そして当然だが、全ては空回りで終わる。
 吉本浩二(主人公)は記憶が宇都宮から飛び、気づいたら東京に帰ってきている。事故を起こさず良かったですね(色んな意味で)という感じだ。

 よってここからは「読んでいます」「読みました」という前提で書き進めていこうと思う。

 アマゾンプライムにドラマ版がある。なんでこれをドラマにしようと思ったのかは知らないが、英断というか、チョイスとしてはかなりのオフェンスを感じさせる企画である。
 スーパークソキモモンスター吉本浩二(主人公)役には濱田岳である。
 なんでこんな「飲み会で盛り上がった雑な企画」みたいなものが現実に現れたのか分からないが、とにかくドラマになっているワケだが、これが異常に面白い。
 原作もドラマもどっちも面白いよ、とかではない。
 原作から回ってきたモンスターをいかに人間にするかという取り組みがこのドラマ版では試みられている。濱田岳を起用したのも、吉本浩二(主人公)の人間化のための配役である。
 ちなみに年齢が32歳になっている。
 4年、若返らせた。地味に外堀を埋めていった形跡が見られる。というか濱田岳を起用したことで色んなキモさが「幼さ」という解釈で成り立つようになっており(実際、舌っ足らずで幼く演技している。ただこれが濱田岳じゃなかったらそれはそれでどうしようもない気がするが)「このモンスターを人間にするのに、人間の生け贄を何体か必要とした」みたいな風情だが、仕方ない。
 原作の吉本浩二(主人公)はそれほどまでにキモいからだ。
 故に俺は原作を読んでからドラマ版に接して欲しいと強く願っている。
 
 そしてドラマ版は原作よりも遙かに上のレベルで、出会うやつがほぼ鬱陶しい。
 元々、知り合いだとか先輩後輩であるとかのキャラはマシなのだが、なんと言っても第一話からして、原作に存在しない「キャンプマウントおじさん」をしつこく登場させることによって比較的、主人公をマシなものに見せている。キャンプマウントおじさんの「それラーメン? きみはラーメンって感じだもんね(自分は米をといでいる)」「キャンプ童貞? 童貞だ、ははは、チェリー」とかの執拗な童貞発言、絡まれたら終わり、絡まれる前から一人で虚空に向かってゴルフを語っている、それがキャンプマウントおじさん。原作にはいないキャンプマウントおじさん。

 その後もとにかく、吉本浩二(主人公)の前に現れるモブが鬱陶しい。「距離感がバグっている上に、常にマウント取ってくるやつ」と言えば分かるだろうか。それを何人も何人も引き当ててくる。
 そしてそれぞれのディテールが異常にリアル。
「いるーこういうやつ、いる!」というリアリティ。
 脚本の方はどういう悪意をお持ちなのだろうか。
 長宗我部元親の子孫を名乗るから「長宗我部さん?」って濱田岳が訊いたら「俺、母方だから違う」とか言うやつとか原作にいませんからね。脚本の方、どういうセンスしてるんですかね。こんな人間凶器のネタをたくさん持っているという引き出しの多さに圧倒されますね。

 こづかい万歳でおかしな人たちを毎回紹介することによって吉本浩二先生の異常性が薄められたように、このドラマでは「木を隠すなら森の中」という言葉に従い、周辺により強いモンスターを配置して吉本浩二(主人公)の異常性を迷彩し続けている。

 だがこのドラマは別に「原作を生ぬるくして一般ウケさせようとした代物」では決してない。それは単にモンスターを殺すだけの話である。もしくは森に帰すだけであって根本的に解決はしない。
 このドラマはモンスターがきちんと人間に戻るまでの物語である。

 原作だと、ほぼEさんとの交流はないのがサイコ感に一役買っているのだが(ちなみに、のちに対談で「PCに大量の旅先画像を送信していた」というそれはそれで恐ろしい顛末が語られる)ドラマ版はちょくちょくメールのやりとり、通話のやりとりなど交わしており、モンスターに人との関わり方を丹念に教え込んでいる。

 その結果、例えば「旅先でニアミスする」などの演出が挟まれることとなる。原作ではぼけーっと普通に宇都宮で、フツーに暮らしていただけのEさん(ドラマ版では「恵理さん」と名前も付いている。ちなみに本仮屋ユイカ)が割とアクティブに動くし話にも関わってくる。
 というかぼけーっと宇都宮で暮らしているだけなのに突然バイクで押しかけられて、その後、誕生日に合わせて日本を一周して北海道から南下されるのは恐怖でしかないが、こうしてお互いがアクティブに動くことによって一方的な思い込みを緩和させることに成功している。

 実際、ただのサイコパス日記である原作よりもドラマ性は高い。ノンフィクションとフィクションの違いとでも言えばいいのだろうか。
 それを「サイコパス日記が良かったのに! 日和った! わざとらしいストーリー性をつけて緩和しやがった!」と憤る人もいるかもしれない。その憤りもまた否定しきれない。それは原作が好きだという思いから出てくる言葉だからだ。
 だが君らにも人の心はあるだろう。
 悲しきモンスターの、人としての笑顔を見たいとは思わないだろうか。

 ネタの拾い方などもセンスが良い。親に「お前も手塚治虫みたいなまんが描け」というかなりキッツい意見のあとに「手塚治虫本人のまんが描いたらいい」とか言われたら笑ってしまう。
 原作では強烈なインパクトを残すモノの作中通してはそれほどキーにはなっていない「二十四の瞳」を一話目から執拗に押してきて張り巡らせるなど原作愛に富んだドラマである。
 処理の仕方も痛快なものがあり、原作のドン引きエピソードである風俗回もちゃんとあるが、遠景で入店を撮り、そしてちょっと元気になって店から出てくるという演出は原作のキモさを脱臭してコミカルなものに仕立て上げている。

 原作の問題回の一つに「キャンプ場で集団がスピッツのロビンソンを合唱している」という、おとぎ話に出てくる鬼の宴会みたいな回があるのだが、そのパートは二つに分けられ、ふざけたミステリみたいになってる。実際、ふざけている。キャンプ場で下着泥棒を探す話である。
 だがこの回はのちに巨大な輝きを放つこととなる。

 原作の問題回の一つに「吉本浩二(主人公)の旧友・大田」というクソウザ野郎が出てくる回がある。ろくな動きもしないくせに、常に上から目線という大田は、このドラマに出てくるモブ全員の集合体であり、このドラマに配置されたクソウザのモブたちは全員、大田の分身である。
 全編にわたって小さい大田がたくさんいる、と思って間違いない。
 原作の大田回で吉本浩二(主人公)がマシに見えたことに皆様お気づきだろうか。隙あらば大田の分身を各所に配置したこのドラマは、そうやって吉本浩二(主人公)というモンスターを人間化しようとしている。
 あととにかく大田はウザい。集合体にして本体である大田は格が違う。
 本当にバイクの乗り方が危ない。そして本当にバイク自体に興味はない。
 
 実際の話、原作を読んでからドラマ版を見ると、あちこちの異常性が丹念に消されている上にいい感じのストーリーに変換され、尚且つ恋愛モノとして絶妙に描かれていることに感心すると思う。
 というか「なんでこの原作をそんなに頑張ってドラマに?」と思うぐらい丁寧かつハイレベルな変換を行っており、なんでこの原作をそんなに頑張ってドラマに? と何度も言ってしまうと思う。
 ニアミスだのすれ違いだのは恋愛ドラマの描き方としてはかなりベタな演出だと思うのだが、原作のサイコパス野郎の妄想からしたら砂漠に発生したオアシスも同じである。
 人は水がなければ生きていけない。

 じゃあドラマ版は原作に気遣っただけの柔らかい優しいだけの代物かというと、そうでもない。かなり何度も、ド直球に「日本一周する意味ある?」という命題を突きつけてくる。
 これは原作でも吉本浩二(主人公)が独白しているから、それだけならドラマ版の反撃とはなり得ない。
 恐ろしいのは「日本一周に拘らなければEさん(恵理さん)とワンチャンあったのに」という展開にしてくることだ。ワンチャンどころか確変確定ですらあった。強くなりたいんですとかどうでもいいんだよ! 近くにいてくれってときにいて欲しかったの!
 なんで日本一周に拘ったんだよ! 私は宇都宮じゃなくて金沢で会いたかったんだよ! とか言われたときの、濱田岳の喪失感、虚無、その他諸々、そして原作では存在しなかった「好きです付き合ってくれませんか」という発言も存在する。
 (原作はサイコパス日記なのでそういったダイレクトな交流は存在しない。ただ異常者特有の頑なな思い込みだけが存在する)
 そういう残酷なエッジをドラマ版は効かせてくる。
 甘やかすばかりが交流ではない。時には殴り合いも必要である。
 ちなみに、普通にフラれる。
 だが原作の異常さが異常に異常なのであって普通にフラれる展開にこれほど安堵を覚えるというのもなかなかないと思われる。

 さてそうしてドラマ版もまた、恋愛成就ならずで終わる。
 ここまでお付き合いしていただけた方ならば分かっていただけると思うが、あの凄まじいばかりキモいことが主眼の一つであった原作をちゃんとした恋愛ドラマに仕立て上げている。原作改編とかそういう話ではない。きちんとキャッチボールをしながら時に優しく、時に厳しく、丹念に、人ならざるモンスターであった吉本浩二(主人公)を人たらしめんとしている。

 そしてラストシーンに驚愕して欲しい。
 なんの前触れもなく出てくるYOU (タレント)とかにまずビックリして欲しい。なんなの、そこでフェイントかける意味なんかあるの? というかなんでエピローグ的なモノにまたYOU (タレント)が出てくるの、あなたそういうの専門なの。など色んなことを思い巡らせてみて欲しい。
 下着泥棒回などというおふざけミステリ回がバチコンと音を立てて我々の脳を砕いてくるのは間違いない。

 こうしてモンスターは人となり吉本浩二先生となる。
 ちゃんと嫁さんがいる吉本浩二先生となることまでドラマ版はフォローしている。恐ろしい話である。みなもこの壮大な人体実験を目に焼き付けてみましょう。

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