日本とドイツの違いが書かれているようでもあって面白かったからメモとして

日本は安心安全安定が大切なエニアグラムのタイプ6の国。安心安全安定のために多くの人は集団に帰属している。

ドイツは、「べき」のタイプ1の国。

そういう前提で以下の2つの話を読むと面白かった。


1つ目の話
『日本人は「無能な同僚」がとても嫌い。(安達 裕哉)』

日本人は集団主義、欧米は個人主義。

日本人は和を重んじるが、欧米人はそうではない。

そんなステレオタイプを聞いたことはないでしょうか。

でも現場では、「自分勝手な人」をたくさん、見てきました。

特に多いのは、「やることは決まっているけど、個人的にイヤなのでやらない」という人で、決まったことに対して、サボタージュを行ったり、周りの社員にネガティブな意見を吹き込んで、アンチとなったりするケースです。

(略)

コンサルティング会社では、そんな人間はすぐに、クビになったり、配置転換されたりして、排除されていました。

役に立たないやつは要らない」というのが共通見解だったのです。

が、日系の大手企業や、中堅中小企業では、社員に対してそこまで厳しい処置を取ることはありません。

決して黙認されていたわけではないですが、結果的に、放置されたり、見逃されたりしていました。

私はそれを見て、「仕事をしない人にまで、給料を払っているなんて、なんて日本企業は懐が深いのだ」と、つくづく思ったものです。

しかし最近、その「集団主義」も、ついに破綻しつつあると感じます。

というのも、以前とは逆に、最近では「仕事をしない人」をなんとかしないと、「仕事ができる人からやめてしまう」のです。

(略)

実験結果は、「無能と同様の条件で働くのにはうんざり」と考える傾向は、米国人よりも、日本人のほうが強いということを示しています。

つまり転職が困難な社会情勢や常識が取っ払われてしまえば、日本人のほうが、良い条件を求めてより躊躇なく転職する傾向にあるとも言えるでしょう。

この結果を見て、私は最近聞いた話に、合点がいきました。

「日本全体のGDPが下がっていると言うけど、自分は稼げているから、別に問題ではない。」

「東京都知事選挙には全く興味がない。その結果に私に関わりはなく、誰がなっても同じ」

これはある意味では、「日本人の強い個人主義志向」を示していると言えます。

これに対して以下の反応をドイツ在住のフリーライターのかたが書いています。

2つ目の話
『日本の集団主義(雨宮紫苑)』

先日、『日本人は「無能な同僚」がとても嫌い。』という記事を拝読した。

日本の和を重んじる集団主義が破綻しつつあり、「無能と同様の条件で働くのにはうんざり」と考える傾向は、米国人よりも日本人のほうが強いのだという。

それを踏まえ、記事は「これからのマネジメントや、日本社会の運営はむしろ、『個人主義志向』を前提として考えたほうが良いのかもしれません」と締めくくられている。

なるほど、たしかに「だれかの尻ぬぐいをさせられるのはゴメンだ」「仕事を早く終わらせるとさらに仕事が増えるからやる気がなくなる」のように、集団への献身を拒否する系のポストはよく見かける。

でもそれは、日本が「個人主義志向」になったからなのだろうか。

わたしはむしろ、集団主義だからこそ、みんなが自分勝手になっていったように思える。

そもそも集団主義とはなにか。

この記事では、自分の意思や得よりも全体にとっての利益を考えて動くこと、組織に対する利他的な考え、と定義したい。

この集団主義を成立させるには
①同じ属性に対する仲間意識
②集団が個人を守る
という2つが前提にある。

集団主義は、仲間を見つけてグループになることから始まる。そういう意味で、日本人は基本的に、仲間意識がとても強い。

同郷、同期、同年代、同じ大学出身、オタク仲間など、なにかしら共通点を見つけて仲間意識を持ち、集団を作っていく。

(略)

日本社会は、「同じ属性の人で集まり」「集団内でお互いを助け合う」ことで成り立つ場面が多い。

しかしそれは裏を返せば、「なにもしなくても仲間ができて、その後は集団が守ってくれる」というイージーモードでもある。

(略)

どこかに所属したら、あとはもう安泰。

よっぽどやらかさないかぎり、集団の一員として、居場所を確保しておける。

……という性質のせいで、集団主義は基本的に「できない人間が得をする」。

学校でも仕事でも、できない人のフォローはできる人の仕事。だって仲間だから。

グループワークをやってこなかった人のために自分が代わりに調べてあげても、結局「みんなで頑張った」ことになる。

子育て社員が残業できないぶん自分が残業することになっても、「助け合いが大事だから」と言われる。

となると当然、こういう考えが生まれる。

「自分は損している。他人なんてどうでもいい」と。

10人がそれぞれ10働くべき場面で自分が15の成果を挙げても、それは8と7しか働かなかった・働けなかった人の穴埋めになってしまう。

それなら自分だって、プラスを作るために努力するより、マイナスでも誰かにフォローしてもらったほうが楽だ。だれだってそう思う。

そうやって自分勝手にふるまったとしても、誰かが助けてくれるだろう。集団から追放されることはないだろう。だって自分たちは仲間だから。集団は自分を守るべきだから。

自分勝手に行動しても集団から追放されない、集団に献身しても見返りが期待できない、っていうんじゃあ、そりゃみんな「みんなのための自己犠牲」なんてバカらしくてやられないよ。

そしてこういった集団に対する諦め、投げやりな姿勢が、「利他的な行動をしない個人主義」に映ってるんじゃないかと思う。

これ、リソ&ハドソンのタイプ6のレベルの記述に似たものがあったと思います。
「自分のやりたくもない義務を強いられていると感じ始める」みたいなものがあったように記憶(あいまいでいい加減だけど)しています。

でもこれを「個人主義」というのは、ちょっとちがう。

(略)

実は個人主義のなかでは協調性がないとかなり生きづらいし、多くの人が利他的な行動を取る。

(略)

日本なら会社の飲み会に対し、「給料出るんですか? 出ないなら行きません」と断っても、仲間外れにされるわけではない。

翌日出勤してもみんな(表面上は)笑顔だし、先輩は相変わらず面倒を見てくれる。

飲み会に行かなかったとしても、あくまで「会社」という集団の仲間だから。

でも個人主義社会でそれをやると、その後ランチに誘われなくなり、仕事で大事な情報が流れてこなくなり、自分が知らないところで大事なことが決定されるようになる。

「だってあなた、わたしたちと仲間になろうとしなかったでしょ?」と。

悪気なんて一切なく、「仲間になる努力をしなかったあなたに、なぜわたしたちが優しくしてあげないといけないの?」と首をかしげられる。


個人で完結するレベルの仕事であれば「終わったから帰る」でもいいが、多くのオフィスワーカーは、仕事が終わらない同僚のためにちょっと残業したり、休日に連絡を取ってフォローしたりしている。

だってそうしないと、自分の仕事が終わらなかったとき、誰も助けてくれないから。

日本のように「同僚だから」という仲間意識が希薄なぶん、ちゃんと能動的に助け合って「仲間」になっていく。そのためには、協調性が必要なのだ。

個人主義=単体行動で自分勝手、っていうのは全然違って、実は個人主義のほうが「ちゃんとみんなで足並みそろえて行動」して、「まわりの人を助けて役に立つ」ことを求められる。

たぶんタイプ1なドイツだと、仲間として認められたければ、それ相応のことをする「べき」となるのだと思われます。

(日本人が)集団に対して大きな不満を持っているくせに出ていくつもりもないのは、今いる居場所を捨てて新しい集団に飛び込むより、すでにある居場所にいつづけたほうが楽だから。

でも集団のために頑張っても、マイナスの補填に使われるだけで自分は得をしない。だからみんなのために貢献する気もない。時間の無駄だから飲み会になんか行く気もない。

これは単純に、「集団主義の最大のメリットであった『所属すれば豊かになる』前提がなくなり、集団に貢献しても見返りを期待できないから、せめておいしいところだけ利用してやろう」って考えの人が増えた、ということだ。

昔の終身雇用&年功序列がまだ生きてたら、いまもみんな企業戦士だったんじゃないかな。だって頑張ったら将来を約束してくれるんだもの。

給料が上がる保証もないし将来どうなるかわからない、生活の保障をしてくれない企業に、どう尽くせばいいんだって思うのも当然。

で、それは個人主義なのか?というと、それはちがう。

だって個人主義だったら、自分が所属する集団は自分で決めるから、不満があればすぐに移動するもの。そのうえで、自分で選んだ集団にはある程度は貢献する。


今回は、タイプ6日本とタイプ1ドイツの違いを書いているともとれて参考になったので、メモがてら取り上げてみました。

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