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音程感の話

クラシックの世界では、例えば歌はピアノより少しだけ音がうわずってもいい(あるいは自然にうわずってしまうし、その度合いが過剰でなければ気持ちいい)。
協奏曲では、ソリストはちょっとピッチを高めに取ったほうが客席まで抜けて聴こえる(音量に自信がない場合には特に有効)。

先日楽屋でジャズミュージシャンと、トランペットとヴァイオリンの音程感をどう合わせるか(あるいは合わせないか)という話をしていた時「ジャズでは音程が低いほどかっこいい傾向にあるからさ。古いジャズの奏者とか、顕著でしょ」と言われた。

確かにジャズの、音程低めではまっている時のあの感じかっこいいな、って思って迎えたポップス寄りのレコーディング。そこでは、私より先に録音されているエレキギターの音程が上がれば上がるほどピッチも高くなって抜けていくの、疾走感があってかっこいいなって思う(果たしてヴァイオリンはギターに寄せるべきか他の伴奏に寄せるべきか迷うけれど)

アラブ音楽では、同じマカーム(旋法)であっても地域によって微分音の高さは異なるというのが定説。加えて「レッスンを受けると、日によって先生のいう正しい音程が異なっている気がする」というのももはや定説。
彼らは、チューナー的な音程感ではなく、今日楽器の楽器はここがはまるという感覚を捉えるのが得意だと思う。いや、誰でも多かれ少なかれ楽器の声に影響されているのだけれど、アラブの人たちはあまりに自然にその声を聴くが故に、そして他の地域の音楽に触れることが少ない故に、自分たちの特別な適応に気づかずに「この音程がいい!昨日と同じことを言ってる!なぜわからないのだ!」と主張してくるから、他の地域でチューナー的な感覚も習得してきてしまった人は苦しむことになる。


ヴァイオリンは、多分世界中の楽器の中で、もっとも音程を自在に作れる楽器だと思う。

最近の悩みを打ち明けると、だからこそ、音程をつくることに親しんでいる私達が、コード楽器や太鼓の音程感が微妙である時に、どこまで指摘していいのか正直わからない。自分の音程が周りの音に引きずられすぎてしまうことについても、どうなんだろうと思っている。

今月のマイアミ行きは、音程をほぼ作れない楽器が中心におかれた音楽を浴びに行けるという点でも、良い転機になる予感がしている。

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