見出し画像

ハンセン病呼称の変遷(3)

『証言・ハンセン病-療養所元職員が見た民族浄化-』(森幹郎)に,ハンセン病呼称に関する言及があった。

…1951年,第十二回国会参議院厚生委員会に参考人として出席した長島愛生園園長・光田健輔は「癩病をハンゼン病と変えたらいいではないか」という質問に対し,「病名をハンゼン病というふうに日本で変えるということについては,子供みたいな話ではないかと私どもは考えるのであります」と証言しました。また,何かのとき,私に向かっても「ハンセン氏病か!」と吐き捨てるように言いました。「ハンセン氏病」という言葉の裏に患者運動の「胡散臭さ」を感じ取り,アレルギー的な拒絶反応を示したのです。光田の意見に配慮してか,1953年,らい予防法案の真偽に当たっては,衆参両院とも「病名の変更については,十分に検討すること」という付帯決議が付けられました。

光田健輔はなぜ「子供みたい」と思ったのか。
森氏の言う「胡散臭さ」を感じた背景にあった「患者運動」を自分に対する反発ととらえていた彼のパターナリズム,さらには彼自身の中にあった「ハンセン病」への差別意識がみえてくる。「ハンセン病の撲滅」という使命感とともに,彼の中にはハンセン病患者を「救済」してやっているという意識,ハンセン病患者への「座敷豚」に象徴される蔑視観があったと思う。ハンセン病専門医としての自負心と高慢さ,自信過剰とも思える自己正当性が感じられる。

森幹郎氏が「らい病」を「ハンセン病」へと言い換えることに反対したのは,次の理由からだという。

偏見と差別は言葉を換えることぐらいでなくなるものでないからです。
発見者の家族や同姓の人の気持ちを考えたら,星や植物の学名ならいざ知らず,偏見と差別にまみれた疾患の病名に発見者の名前など付けないほうがいいというのが私の主張でした。
もし,古くからのらい病が鈴木病と命名されたら…鈴木先生の家族や全国に二百万人もいると言われる鈴木さんの気持ちはいったいどうなのであろうか?きっと<らい病>を<鈴木病>とは呼んでほしくない,というのが本音ではないだろうか?

私は,森氏の考えは矛盾していると思う。「偏見や差別は言葉を換えたくらいで…」には同感するが,「偏見と差別にまみれた疾患の病名に発見者の名前など付けないほうがいい」とはどういうことだろうか。
この森氏の考えには「らい病」という病名ではなく「ハンセン病」という病気そのものが「偏見や差別にまみれた」病気であるという,それこそ病気そのものに「偏見や差別」があるように受け取れる。いかなる病気であっても,その病気そのものが「偏見や差別」されるということはあってはならない。「らい」「らい病」という呼称に,そう呼ぶ人間の「偏見や差別」が込められているのであって,「偏見や差別」を受ける病気があってはならない。

森氏の論理では,<鈴木病>であろうが<ハンセン病>であろうが,「らい病」は「偏見や差別」を受ける病気であると言っていることになる。「川崎病」は人名を付けてもよくて「ハンセン病」はいけない,など病気によってちがいがある方がおかしいだろう。私は彼の考えには賛同できない。

「偏見や差別」で見られていた病気の名前に「人(自分)の名前」を付け(られ)たことが問題という森氏の発想はおかしい。なぜなら,問題は「人名を付ける」ことではなく,病気を「偏見や差別」のまなざしで見ることだからだ。

「らい病」を「ハンセン病」に換えることは,単に病名の変換ではなく,病気に付随してきた「偏見や差別」そのものを払拭させようとする願いと活動が込められているのだ。

「らい病」という言葉が持っていた偏見と差別を「ハンセン病」という言葉が受け継がないよう努力することが重要です。

上記の森氏の言葉にも違和感を感じる。誰が「らい病」に「偏見と差別」を持っていたのかであり,なぜ「偏見や差別」を持つようになったのかを考えるべきだ。

「ハンセン病」という病名になったら,「Hansen」さんは「偏見や差別」で見られるようになるのだろうか。この論理や発想では,いつまでも「らい病」そのものが「偏見や差別」をもたれる病気であることのまちがいが払拭されることはない。

病気の呼称が問題なのではなく,病気に対する「偏見や差別」の意識(認識)が問題なのである。

同書に,日本政府がハンセン病を「国辱」として対応し始めた原因が書かれている。

1906年のことです。ひとりのハンセン病患者がイギリス大使館の門前で行き倒れになっていました。早速,大使館の館員は外務省を訪れ,「日本のような一等国の町のなかでハンセン病の患者が浮浪しているのは国の恥です」と言いました。
1905年,第二回日英同盟が協約され,駐日公使館は大使館に昇格しました。その翌年,イギリス大使館の門前でハンセン病の患者が行き倒れていたのです。
我が国政府は富国強兵策をとり,先進国にキャッチアップすることに総力を挙げていましたから,同盟国イギリスの大使館から「日本の恥」と言われると,慌てました。わが国のメンツは丸潰れだったからです。また,1899年,亜米利加(アメリカ合衆国)との修好通商条約が廃止されると,五つの開港地にある居留地は開放され,市中を歩く外国人の数も増えてきました。当局は「日本の恥」を外国人に見せてはならないとの思いを一層強くしました。

「国辱」と指弾された政府にとって,ハンセン病対策は急務となった。だが,隔離政策を訴えたのは光田健輔であり,彼の意見を採用したのは当時の政府関係者である。国家の責任を糺弾するよりも,当時のハンセン病対策に関係した人間及び彼らの考えこそを解明する必要がある。国家もまた人間の集合体である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。