光田健輔論(40) 牢獄か楽園か(4)
「戦争は最大の人権侵害である」とはよく聞く言葉であり、真実である。戦争の悲惨さは数多語られ、その残虐さゆえに非人道的な所業と誰もが思うが、敗者は戦争犯罪人としてその責任を問われて罰せられても勝者は免罪される。このことは歴史が証明している。しかし、戦争の副産物ともいえる悲劇は、その責任を問われることもなく歴史の闇に隠されてしまう。従軍慰安婦、住民への掠奪・強姦、人体実験、強制労働など、そしてハンセン病患者への隔離政策である。
なぜ光田健輔および占領地・植民地の療養所長は「戦争犯罪人」とならなかったのか。彼らが強引に実行した絶対隔離政策、その結果としての残酷な人権侵害の数々を検証しながら、痛恨の思いを禁じ得ない。何よりも、彼らが患者救済のため、国のため、日本国民のためであると「正義」を振りかざし、何の責任も反省もせず、むしろ正当化を主張することに憤怒を押さえられない。
高橋哲哉『記憶のエチカ』に、<忘却されたことすら忘却される>という問題が指摘されているが、ハンセン病問題もまた、このままでは<忘却>され、歴史の闇に断片のみを残すことになるだろう。それゆえに、生き延びた人々からの証言を歴史の中で考証し、歴史事実として<記憶しなければならない>と思う。「知らなかった」は<忘却>に加担してしまっていることなのだ。
光田健輔の手足のように、意のままに絶対隔離政策を支援し続けた「日本MTL」の活動について再度検証しておきたい。概要について藤野豊『戦争とハンセン病』より抜粋・転載する。
ハンセン病対策としての「絶対隔離政策」は光田健輔の発案であるが、その実施にあたっては光田の強引な政治的手腕はもちろんだが、光田の時勢を敏感に取り入れた巧妙な弁舌により感化された人間たちの働きが大きかったと痛感する。その実働部隊となったのが「日本MTL」であると言っても過言ではないだろう。
光田には「人誑し」の才能があったと思えて仕方がない。渋沢栄一の威を借りて多くの政財界の知己を得、その知己の伝手を頼り人脈を拡げていった。人脈としては、内務省衛生局の高野六郎ら内務省官僚、「癩予防ニ関スル件」制定に尽力した山根正次ら政治家(代議士)、組織としては、渋沢栄一の癩予防協会や後藤静香の希望社、そして賀川豊彦の日本MTLがある。彼らと光田との関わりを調べるとき、それぞれの思惑(目的や考え)が交錯しながらも「救癩」「民族浄化」に結実していくことがわかる。その結節点にはすべて光田健輔がいる。
光田の巧妙さは、権威や権力をもった人物と親交を結ぶことで自らの権威や権力を高め、自らのハンセン病対策を推進する人脈と体制を築く一方で、ハンセン病医療の先駆者として、ハンセン病に関心をもつ医者を全生病院や長島愛生園に雇い、実地指導を通して育成する中で自らの「救癩思想」や「絶対隔離」を洗脳的に教導し、意に沿う人間を全国の療養所に医官や所長(園長)として送り込んだことである。
気の毒でかわいそうなハンセン病患者を「救済」したいという誠実な「献身」と、「国家」「健康である国民(非ハンセン病患者)」を守りたいという大義に立った「使命」が、光田による「絶対隔離政策」に帰結したのである。世間からの差別や偏見、排除によって放浪するか隠れて暮らすかを強いられていたハンセン病患者にとって、確かに療養所は「一縷の望みの場」であったことも事実である。「無らい県運動」に積極的に関わった人々の多くも、当時の社会状況から純真に患者のことを思い、「救癩」を信じて参加したのも事実である。
日中戦争以後、中国・東南アジアへと戦火が拡大し、占領地も広大となる中、それら植民地・占領地にも多くのハンセン病患者が存在していた。日本MTLの会員であり、それらの地に軍医として従軍したハンセン病療養所の医官たちは現地を視察し、ハンセン病患者やハンセン病療養所(多くはフランスやドイツの宣教師・修道女たちによって運営されていた)の実態を報告している。その報告をもとに、光田や賀川は「東亜の癩」「大東亜の癩」を救済すべく、日本の絶対隔離政策を中国や東南アジアにまで拡大しようとした。
賀川の優生思想や差別観などは多くの研究者によって指摘され批判されている。いずれは私も考察するつもりだが、今は賀川の考えによって日本MTLの活動が決定されていたことを確認しておきたい。
光田健輔と賀川豊彦という「権威」ある二大「指導者」によって日本MTLは絶対隔離政策を国内から占領地・植民地へと拡大していった。だが、「大東亜共栄圏」への救癩を「日本の基督者が命を掛けてやらなければならない」と訴える賀川の威勢に反して、実際は「中国・山東省の療養所に大風子油を供給する費用を負担」したり、「会員の軍医が任務の合間に中国各地のハンセン病療養所を訪れる程度」だった。
戦場の拡大により兵士の不足が深刻化する中、日本のハンセン病患者を戦争に動員する「救癩挺身隊」構想が提起された。楓十字会員であり、光田健輔を深く敬愛していた松丘保養園の医務課長内田守や長島愛生園医官早田晧、同事務官宮川量、大島青松園長野島泰治らによって構想され、具体化に向けて動き出していたが、結局は実現しなかった。しかし、ハンセン病患者を、たとえ軽症者であるとはいえ、戦地に送り出し、占領地や植民地の療養所で働かせようとする彼らにとって、患者や医療よりも国家が優先されたのだろう。あらためて「救癩」が「民族浄化」の別名であったことを痛感する。
だが、このように述べる光田の本音は日本軍将兵への「感染予防」である。中国のハンセン病患者から日本軍将兵や日本人移住者などへの感染を恐れていたのである。
果たして光田は、朝鮮・中国・東南アジアのハンセン病患者を「救癩(救済)」しようと考えていたのだろうか。光田の文章は、「美辞麗句」を並べたり、誇張気味に書いたりする傾向が強く、「本音」や「事実」を隠そうとする場合は特に顕著であるため、そのまま読むと欺かれてしまう。それは彼の人柄や患者への態度、あるいは彼のハンセン病対策に注ぐ情熱に対する「評価」が両極端に二分化されることにも通じている。
「満州国」に開設されたハンセン病療養所「同康院」は、交通の不便な山奥に建設され、冬は厳寒であった。二代目院長に就任した長島愛生園医官であった難波政士からの、日本語のわかる看護婦がいないという訴えに応えて、長島愛生園から2人の看護婦が赴任している。
これはほんの一例である。光田の<目的のためには手段を選ばない>独善性がよく表れているエピソードだが、同様の話の数々を長島愛生園の入所者からもたくさん聞かされた。光田の著書や光田に関する思い出、伝記などは注意して読まなければ、事実の曲解や歪曲、偏向解釈などは至る処にある。「軽快退所」などを例に光田を擁護する研究者もいるが、それも光田の気まぐれの場合も多く、結局は光田の独断に左右されている。
私にはハンセン病患者を「絶滅」することでハンセン病を「根絶」する、その意味での「民族浄化」が光田の目的であるとしか思えない。光田が主張する「療養所を造る」あるいは「癩療養所を拡充強化する」目的は絶対隔離政策の実現のためであって、患者のためではない。だから「人権の圧迫と個人経済に対する大いなる打撃であるけれども」と一応の断りを書いているのだ。
本章の最後に、藤野豊『戦争とハンセン病』を参考・引用しながら、「南洋群島」のハンセン病療養所の実態についてまとめておく。
藤野氏は現地を調査し、パラオのゴロール島に隔離された経験をもつオロゴス氏に聞き取りを行い、日本兵によってハンセン病患者が殺されたという証言を得ている。現地パラオの住民だけではなく、ヤップ人、インドネシア人、朝鮮人、沖縄県民を含む日本人など隔離されていた人間がすべて日本兵によって殺されている。
直接的ではなくとも光田健輔が専門医として発する「ハンセン病の恐ろしさ」は、より誇張されて伝わっていく。絶対的な上意下達の軍隊組織では、上官からの命令は忠実に守られ実行されなければならなかった。光田の絶対隔離政策は軍隊によって「究極の姿」として実施されたのである。
しかし、戦争という異常時・非常事態に免罪符を与えてはいけない。<目的のために手段を正当化する>論理の「究極の姿」もまた戦争なのだから。