部落史ノート(11) 「ケガレ」(2)
網野善彦『歴史を考えるヒント』(新潮文庫)「被差別民の呼称」に基づいて「ケガレ」についてまとめている。
なぜ自ら言うようになったのか、周囲からそのように見られるようになり、そのように扱われる(差別される)ようになったからなのか、それとも自ら遜って言っているのか、なぜ遜る必要があったのか、そうさせたのは支配層なのか…いろいろと疑問が生まれてくる。
時期的は南北朝期が大きな転換期になっている。何が起こったのだろうか。
網野氏は、鎌倉時代の「非人」について、『一遍聖絵』に描かれた「白い覆面と黒に近い柿色の衣、帷子を着け」ている「犬神人」の「背筋を伸びた堂々とした」姿から、「非人は賤しめられた集団ではなかった」と考える。
以前には、この「白い覆面」を白い布(包帯)と解釈し、癩者(ハンセン病者)であると言われ、部落史の概説書などにも書かれてきた。中世において「穢多・非人・かたひ(癩者)」と呼ばれて賤視の対象であり、癩者(ハンセン病者)に対する差別の歴史的証左としても使われてきた。だが、近年はあまり聞かないし、私には確証がない。
同様に、刑罰を執行する刑吏に「放免」という集団がいた。網野氏の説明を抜粋して引用する。
非人・放免・犬神人など呼称はさまざまであっても、神仏に関わる職能、特に<聖>に対峙する<穢>、つまり「ケガレ」を「キヨメ」る役目を担っていた集団であった。そして、いつしか寺社の掃除や葬送だけではなく、<ケガレ>とされたさまざまな仕事を担当する、あるいは命じられるようになった。その集団を掌握するため、<聖>の代表である天皇の直属の下級役人として検非違使庁に管轄されるようになったのではないだろうか。
「清目」についても「本来は清掃などをさすふつうの言葉」であり、網野氏は差別語ではなかったと言う。
中世の賤民が神仏に直属する職能民であり、「ケガレ」を「キヨメ」る異能を持つ集団であったことは明らかであり、それゆえに複雑化しながら民衆の中に浸透していった「ケガレ」観に対処するため、特に犯罪や処刑に携わる役目を担うことから天皇直属の下級役人として検非違使庁に属するようになった。その対価として租税免除や給田などの特権を与えられている。
問題とすべきは、やはり<賤視観>であり<卑賤観>である。
網野氏は13世紀後半から「穢多」という言葉が使われるようになり、それは初めから差別的な意図を持って用いられたと言う。『天狗草紙』という絵巻物に登場する「穢多童」や河原で牛馬と思われる皮を干している人々に対して「穢れ多し」という字を用いたのは差別意識の表れであり、このことから、「非人、河原人を神仏の直属民と見ていた時期とは、はっきり異なった視点」であることがわかると述べている。
このように網野氏は背景を考える。つまり、神仏や呪術を重んじていた時代から人間を重んじる時代へと、ケガレから汚穢へと価値観が変化した結果、ケガレを忌避する意識が差別意識へと進んだと考える。非人などへの畏怖が忌避と隔離へと変化し、差別するようになったのだ。つまり、非人を見る側の「意識」や「感情」が変わったのである。
この変化がよくわかるのが「遊女」である。網野氏は次のように説明する。
私は「ケガレ」自体を「迷信」であり、人間が生みだした「共同幻想」であると認識することが最も重要であると考えている。特に「伝染する」ことの否定が部落差別の解消につながると思っている。死穢も産穢も人間であれば誰もが身近に経験することだろう。それをなぜ忌避する必要があったのか、それは移るからだ。目に見えない、実態すらない、ただの観念が「災い」と結びつくから人は避けるのだ。それが「共同幻想」となるから、人は忌避し、穢れたものを隔離する。だからこそ、「ケガレ」などという共同幻想を否定し続けなければならない。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。