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光田健輔論(8) 権力と人権(1)

「癩予防ニ関スル件」の制定前後、光田と内務省による絶対隔離政策が進行していく中で、それに対する批判もしくは反論はなかったのだろうか。その間の動きについて、成田稔氏は『日本の癩対策から何を学ぶか』において詳しく論じている。成田氏の考察をもとに、私見をまとめておきたい。それは<権力と人権の対立>とも言える。

まず最初に、光田はいかにして「癩対策の第一人者」と自負し、日本のハンセン病対策を主導することができたか、これに関して成田稔氏は『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』の中で「光田は癩の権威か」「光田を支えた権力構造」の項で、詳細に検証した上で手厳しく批判している。

不治の時代の癩に対する一般大衆の思惑は、嫌悪、忌避、排除と一方的だった。そこを感知した患者たちは隠遁、隠匿、遍路、放浪などと心身ともに病む身をより痛める苦境に自らを追いやる以外になかった。このような状況を見聞している一般大衆にとって、隔離という対応は「恐ろしい伝染病」という不合理なキャッチフレーズに煽られ、むしろ当然な措置と受け取られたろう。ただ世間の嫌悪の目に耐えきれない思いの患者にとっては、隔離もささやかな安堵だったかもしれない。
何がどうあろうと癩は癩、その対応には隔離が唯一最善と盲信し、終生隔離を患者からの癩菌一つに絞る無謀さも、恐ろしい伝染病の一言で正当化した光田を、多くの人びとが「癩の権威」として疑わなかった。これは権威が、無知な一般大衆によってつくられる一つの証でもあった。
まず光田と一般大衆との間の共通認識だが、それは癩に対する忌避的・排他的心情にちがいなく、恐ろしい伝染病、隔離こそ唯一最善の啓蒙が一般大衆の総意に叶った。否、叶ってこそ至当とする光田の過信が、実際面での至難な絶対隔離という妄想を生んだ。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

光田が「癩の権威」として登場してくる当時(ハンセン病対策が行われる以前)の社会状況(一般大衆がハンセン病患者をどのように見ていたか)を端的に言い表している。成田氏の「無知」という表現は「知らないこと」の意味であり、「知らないこと」の恐ろしさを伝えたいのである。「知らない」人間が「知っているであろうと思われる」人間の言葉に、どれほどまちがった認識と判断を委ねてしまい、そのためにどれほど多くの悲劇が繰り返されてきただろう。「権威」を与えられた(認められた、支持された)と錯覚した人間が、自らを「権力者」と過信してしまう愚かさを歴史が証明している。光田もその一人である。

成田氏は、「癩予防ニ関スル件」の制定(1902年)に「最も強い圧力になったのは癩予防相談会の存在ではなく、泰斗北里(柴三郎)の無言の存在だったと考えたほうが当たっている」とした上で、回春病院のハンナ・リデルが経営難の打開を光田に相談し、それを光田が渋沢栄一に橋渡ししたことで、銀行倶楽部での癩予防相談会につながった経緯から「癩対策の幕開けを担うような自負を持」ち、さらに当日の自分の招聘講演が『毎日新聞』に掲載されたことなどから「日本の癩対策の第一人者のような自信を深めた」ことを「自分勝手な結論」と批判している。

確かに光田の回想録などを読むと、若き日より相当の「野心家」であり、上昇志向(立身出世)の強い人物であることがわかる。明治期の家父長制あるいは家制度、戸主の強権を体現していると言ってもよいだろう。その考えをそのまま絶対隔離下の療養所運営に「大家族主義」として持ち込んだのである。彼の問題は、戦後になり、新しい民法になっても、旧来通りに運営しようとした頑迷さである。「家長」であることで「権威者」「権力者」であり続けたいと思っていたのかもしれない。

成田氏は、この光田の錯誤を「光田は病理組織学の癩の権威かもしれないが、癩を病む人への対応の権威では決してない」と断ずる。

東京市養育院に癩患者専用の回春病室を設置(1899年)、全生病院院長(1914年)と、日本の癩対策の初期すでに、光田はそれなりの権威を自負していたろうが、当初から相応の権力を備えていたようでもない。それが日本の癩対策の基本原理でもある絶対隔離にとって、中心的かつ強力な権威者ともいわれるのは、渋沢栄一、安達健臧、高野六郎ら三人の協賛があったからこそではなかったか。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

成田氏は、光田が「癩の権威」として権力をもっていく過程で、光田を支えた三人の人物と光田の関わりを重視する。光田の「後ろ盾」となった人物の責任も問われなければならない。

渋沢栄一の略歴ならびに功績は今更述べるまでもないだろう。しかし、彼がハンセン病問題や光田健輔と関わり、光田を盲信した結果、絶対隔離政策の推進に一役買うことになった経緯は忘れてはならない。

光田健輔が東京市養育院に職を得たことが渋沢栄一との出会いであった。光田の回想録『回春病室』によれば、一人のハンセン病に罹った少年を渋沢院長に見せて伝染の話をしたことで、渋沢は「はじめてライが伝染病であることを知って驚かれた」という。そのときに、次のような話をされたとある。

渋沢男爵が未だ少年のころ郷里の家の近くにライの子供がいた。人々はきらって寄りつかないのでその子は一人さびしそうにしていた。なさけ深い渋沢氏のお母さんがいつもそれを可哀そうだといって、食べものを持って行ったり、遊んでやることをいいつけられた。したがって度々その子に接近することがあったが危ないことであったと何度もくりかえして、大きく感動せられた。

光田健輔『回春病室』

渋沢栄一の母お栄には、生まれつき慈悲深く、人が困っているのを黙ってみていられない性質で、近所に年上の女性のハンセン病患者がいたが、人に忌み嫌われても彼女は普通に接し、よく物を与えたり、お礼にもらったボタ餅なども平気で食べたり、万病に効くという井戸水で沸かした湯に入浴していたときにその女性の背中を流してやったりという逸話が残っている。渋沢は母親の姿を見て育ち、その慈悲の心を受け継いでいるからこそ社会事業に身命を賭して関わり続けたのであろう。

そのような渋沢だからこそ、光田に献身的な医師の姿を投影してしまったのだろう。成田氏はそれを渋沢の勘違いだと言う。

…これは渋沢の言わば勘違いであって、お栄の情け心によるライを病む患者への手助けにしても、光田の救癩即隔離は功利的な心情に基づくものでしかない。おそらくこの勘違いが昂じたとともに、癩の疫学的実状に無知のまま光田の熱弁にほだされ、<男が男に惚れるということがあるが、わたしはいつのころからか、この光田君に惚れこんでしまった>。
…1909年の第二回国際癩会議においては、「癩は不治」の俗説の浸透を嘆き、さらに患者が自発的に受容できる生活条件での隔離を勧めており、絶対隔離による癩の根絶は陳腐な所説になりつつあった。それにもかかわらず光田は、隔離こそ唯一最善との盲信を変えず、渋沢も当然なことに癩予防に関する海外の情勢に暗いまま、<彼に頼みごとをされると、希望を叶えてやらずにはおられなくなるのです。…>

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

私は、人間のもつ二面性を痛感する。渋沢だけでなく光田にも「救癩」の人一倍強い気持ちはあっただろうし、それこそ人が(同じ医者でさえ)嫌がり忌避するハンセン病患者に自ら歩み寄り、救いの手を差し伸べた光田に慈愛の心はあったであろう。だからこそ、渋沢も光田の熱弁に真意を感じ取り、賛同と協力を行ったのだろう。私は光田を「慈善」を「偽善」とは思わない。もしそうであれば、渋沢は見抜いていただろう。

では、何が光田を<絶対隔離>に固執させたのか。理由はいろいろと考えられるが、彼の自負心と頑迷さ、権威への固執が根底あったと思う。光田が周囲に持ち上げられて「権威者」(第一人者)となったと思い込んだ「勘違い」と「自己満足」が他者の意見を聞き入れなくしてしまったのだろう。
「癩の根絶」という至上命題に対して完全な答を考えたとき、感染源となる癩菌の保有者である患者を一人残らず隔離し、一歩も外に出さない、逃走させない、子孫を根絶やしにすることで、癩菌の存在を消滅させる。これが光田の導き出した解答であった。それは、患者を人間とは見なさない、<駆除>の論理である。ヒトラーの<ホロコースト>と同じ論理である。

埴谷雄高は「目的は手段を浄化しうるか」(『内ゲバの論理』所収)の中で、<目的は手段を正当化する Der Zweck heiligt die Mittel>という命題について論究している。埴谷はこの見解を「政治の手段」であるとし、相対立する見解である「目的は手段を正当化せず」を「ヒューマニズムの手段」と呼んでいる。
以前にも書いたが、光田の論理、国家の論理は「目的は手段を正当化する」である。だからこそ、私は言いたいのだ。決して目的は手段を正当化も浄化もしない(できない)、と。
同様のことを成田氏も書いている。

長島事件も畢竟は絶対隔離への執念による独善的な違反行為だが、そこに至るまでの絶対隔離完遂をもくろむ光田の言動は、本人はたとえ正義と自認していたにせよ、官民の巨頭を巻き込んだ幻想的権力の乱用でしかない。しかも光田は、おそらく本来の野望達成(絶対隔離の完遂)にただ忙しく、自らを家父長に擬えたパターナリズムのもとに、ここを「楽土」たらしめんとした心情はむしろ異常であり、患者に対する思いやりにも家父長の功利的目的に沿うか沿わないかの、はっきりした裏腹の違いがあったのではないか。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

手厳しくも的を射た考察である。光田の回想録と自治会誌に綴られた患者の辛酸の数々を対比させながら読めば、光田の独善性は明らかである。


光田を支えたもう一人の人物、安達健臧について成田は次のように書いている。

全生病院創立20周年(1929年)式典に、渋沢は老躯に鞭打って参加したが、そのとき光田から救癩団体の設立を強く求められ、その旨を内務大臣安達健臧に、生涯最後の奉仕と懇請したのが、大きな転機となった。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

その時の話を安達は次のように語っている。成田氏の著書より引用する。

…子爵(渋沢)は涙さへ浮べて熱心に癩の悲惨なことを話された。殊に御自分が養育院で御世話された子供の一人が、その働いて居った家の主人から伝染して癩に罹って哀れな死を遂げた事実から、それが伝染病であることを知らされたのであるが、世間にはそれが遺伝病と思ひ違へられて居るために、聞くに堪へない数々の悲劇が演ぜられて居ることを語られ、人道上は固より国民保健上からも此の儘に打ち捨て置く可きでないと強く主張せられました。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

安達は大正から昭和初期にかけて活躍した政党政治家であり、「選挙の神様」と評された人物である。1929年当時は、民政党単独の浜口雄幸内閣で、内務大臣に就任していた。財界の大御所であり、社会事業家としても尊敬を集めていた人望の厚い渋沢の熱意に、安達は強く心を動かされたことは想像に難しくない。それは渋沢を通じて光田の方針を安達が鵜呑みにしてしまうことになる。事実、以後の癩対策の施策、癩予防法の改正、癩予防協会の設立などの行政指針は、「光田の要請を受け入れた渋沢の建言と安達の施政によって絶対隔離の国策化を明確にすることになった」(成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』)

私はここに光田の大きな勘違いと過剰な自惚れが生まれたと考えている。渋沢というコネクションを上手く使い、安達や同郷の政治家山根正次、さらに内務省官僚などに取り入り、人脈を拡大させていくうちに、ハンセン病の専門医として自負心と、周囲からの賞賛を自らの実力と勘違いした慢心が彼を狷介な人間にしていったのだ。そして彼はそれが「驕り」でしかないことにさえ気づかない。

成田氏は、光田と渋沢・安達の違いを明らかにする。

光田の無謀な思案である絶対隔離に、前述のように国策として幻想的権力を与えたのは、渋沢であり安達であったのは確かだが、光田の思念は「絶対隔離」「無癩国日本」と社会防衛に徹していたのに対し、渋沢・安達らのそれは光田とは違い患者の悲惨な現実からの救済という面も強かったにはちがいない。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

光田の<パフォーマンス>について、次のような逸話がある。
内務省衛生局長であった高野六郎の回想である。彼は東京大学医学部で土肥慶蔵に学び、北里研究所で北里柴三郎の下で副部長にまでなり、内務省衛生局予防課長、厚生省予防衛生局長を歴任し、本妙寺癩部落や草津湯ノ沢部落の解体に関わった人物であり、療養所運営に強い権限を持っていた。その公衆衛生専攻の高野が次のように光田の思い出を書いている。

…東村山へ見学に行って初めてらい患者を見た。その時に光田先生の患者の身せぶり、われわれ見学者に見せて下さる患者を親身に身内のように扱うと、いやこれはこの顔がこうでこの点がどうなったというようなことを遠慮もなく手で触って、その手であまり消毒もせぬうちに自分の顔の辺りをなでるのではないかという位に、いかにもわれわれは大学の講義において土肥先生かららいの話を聞き、それから伝研において北里先生かららいのお話しを聞いたが、らいはこわい伝染病だということが第一のインプレッションとしてもっておったのに、光田先生はおそれておることは恐れているだろうと思いますが専門家だから、少しもこわがらないようによくあつかわれる。とにかく光田先生がいれば日本のらいは相当うまくゆくだろうという感じがしたのです。

高野六郎「思い出を語る」多摩全生園『創立50周年記念誌』

成田氏は「癩菌恐怖症ともいってよい光田の、医療者や患者を引き付けるためのいかにもわざとらしい仕種が何か疎ましい」と痛烈に断じているが、確かに光田にはこのような姑息さはあった。

繰り返すが、私は光田の人格や人間性を批判することを主眼に置いてはいない。日本におけるハンセン病対策の誤りを、単に国策の失敗として国の責任を問うのではなく、そのまちがいに加担した人間がなぜ気づくことができなかったのか、90年の長きにわたり代々の後継者たちが見直すこともできず流されて(踏襲して)しまったのかを明らかにしたい。なぜ光田のつくりあげた<絶対隔離>に伴う「強制作業」「断種」「懲戒」などを黙認したのか、光田の提言や説明を盲信してしまったのか、それらを明らかにしたい。

死んだ人間を鞭打つことの無意味さはわかっているが、それでも光田と同じような人間は現れ続け、その人間を支えようとする渋沢のようなお人好しや高野のような権威に盲従する人間も現れてくるだろう。現にロシアのプーチンや中国の習近平、北朝鮮の金正恩、ハマスのようなテロ集団がいるではないか。私は、テレビで見る彼らよりも、その傍にいる人間たちの緊張感をひしひしと感じて戦慄を覚える。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。