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部落史ノート(10) 「ケガレ」(1)

網野善彦『歴史を考えるヒント』(新潮文庫)の冒頭に、本書の主題についての一文がある。

日常、われわれが何気なく使っている言葉には、実は意外な意味が含まれていることがあります。あるいはまた、われわれの思い込みによって言葉の意味を誤って理解していることしばしばあるのです。…
しかも、そうした問題を考えることによって、従来の歴史の見方を修正せざるを得なくなったり、現代に対する理解が変わって、世の中がこれまでと違って見えてくることさえあるのではないかと考えます。
…古文書を解読する場合、われわれはとかく現在、常識的に使用している言葉の意味をすぐに投影して理解しがちですが、本来それは歴史を正確に把握するためには、戒めら(れ)るべき態度であるといわなくてはなりません。

本書は、網野氏が「言葉」の意味をキーワードに「歴史」を理解する上で重要な視点や考え方のヒントを述べている。

社会科教師として教科書に基づいて歴史を教えてきた。当然、歴史上の出来事や流れ、歴史的背景など可能な限り「教材研究」を行い、準備した上で授業を行ってきたつもりだが、歴史研究の進展により新たな史実(史料)の発見や新たな解釈により内容が大きく変更されることが多々ある。ほとんどは教科書改訂のときであるが、教科書記述に反映されないことも、数年あるいは十数年後に反映されることもある。「国定」教科書という性格上、それは仕方がないことではある。
一例を挙げれば、今となって当り前のように教科書に記述されているが、「士農工商・穢多非人」が消えている。江戸時代の身分制度として「階層別ピラミッド」に図式化して説明していた。同様に、「農民」が「百姓」に変更されている。これは本書の「V 誤解された『百姓』」で詳細に説明されているが、長く「士農工商」「農民」で江戸時代を説明してきたことで、どれほど多くの人々が誤解したままでいることか。教師と教科書の責任は重い。私自身、初めて網野氏によって「農民」ではなく「百姓」であることを知った衝撃は今も覚えている。

網野氏の言う「言葉の意味」の重要性はそのとおりであるが、逆に必要以上に懐疑的になり、推測の域を越えて「臆測」に走り、臆測が憶測を呼んでいることに気づかず、飛躍した結論を導き出しているにもかかわらず、「真実の歴史」と思い込んで悦に入っている人間もいる。本とインターネットしか頼ることのできない人間が陥りやすいドグマである。

「通説」「一般説」への対抗心・反抗心から、あるいは功名心から、異なることを主張することが目的となり、自説に固執して、史料・史実の読解や「言葉の意味」さえも独善的な解釈に至っている。


本書の「Ⅶ 被差別民の呼称」に従って「ケガレ」について整理してみたい。

…ケガレとは、自然と人間社会との均衡が、人間の意思を超越した力によって崩れと時に起こる事態に関わる観念と言ってよいと思います。…

一人の人間が死ぬと、周辺の社会には不均衡が生じます。これが「死穢」、死によるケガレの発生です。それが平常に回復するまでに一定の時間を要するわけで、その期間が、忌み籠もりをしなくてはならないケガレの期間です。一方、子供の誕生は、おめでたいことでもあるのですが、やはり新しい人間が生まれると、周囲が落ち着いた平常の状況にもどるまでには時間が若干かかります。その期間が「産穢」と呼ばれ、ケガレの状態と考えられてきました。
その他、人間の力ではどうにもならない火が引き起こす火事の際には「焼亡穢」、殺人や盗みなどの犯罪が発生すれば「罪穢」が生じます。こうした事態をケガレと捉える感覚は世界の諸民族に共通しているようですが、それに対する対処の仕方は民俗あるいは地域によってかなりの違いが見られます。

…9世紀以降の王朝になると、ケガレに対する制度が表面化してきます。そしてその背景にあったのは、ケガレは伝染するという考え方でした。もちろん、ケガレとは実態のないものであり、観念、意識でしかないのですが、閉ざされた空間の中で発生したケガレが、次々に伝染するという感覚が、古代の西日本の人々の間にはあったのです。

この「ケガレ」が問題なのは、特に「賤民」との関係で問題となるのが、この「実態のない」観念(意識)ということ、そして「伝染する」ということである。つまり、見えないから恐れるわけで、実態がない観念だからどのようにも解釈できる。誰かが、権威ある者が言えば、人々はそれを安易に信じてしまう。支配者、権力者、国家など支配体制が命じれば、それらが「ケガレ」となる。「ケガレ」を「災い」と結びつければ、それを避けたいという意識は強く作用する。そこに「伝染」という<経路>が加われば、「遠ざける」「隔離」の意識は更に強くなる。そして「ケガレ」た者に対する<賤視観>や<卑賤観>が生じてくる。

網野氏は「ケガレ」が平安朝期に国家的な問題となった理由を、公卿や天皇が「ケガレ」に伝染したことで宮廷行事や国家行事が停滞することになり、それを避けるために「ケガレ」を法制的に明確化し、その対処を定めたのだと言う。

ケガレが発生した場合、それを清めるための手続きを法制化し、ケガレた人間が何日間か家に籠もる一定期間の「忌籠」が義務づけられました。死穢は三十日間、産穢は七日間など、ケガレの性格によってその期間は様々でしたが、その間は家に籠もっていなければケガレを清めることはできなかったのです。近親者の葬儀の後に休みをとる現在の「忌引」は、その観衆の名残りですし、葬儀の後で家に入る前に塩をまいてキヨメるのも、ケガレの伝染を避ける呪いです。

「ケガレ」が呪術的な儀礼だけのものであれば、今日に続く部落問題は生まれていなかっただろう。なぜ「ケガレ」が<賤視観>や<卑賤観>の要因となったのか。
網野氏はその理由を、9世紀半ば頃、京都の都市化の進行に求めて、次のように説明する。

…飢饉によって多くの餓死者が出て、賀茂川の河原に沢山の死体や髑髏が放置されるという事態が生じました。その処理と葬送、つまり死者のキヨメを、政府は悲田院という、孤児や重病人を救済するために設けられた国家的施設の人々に命じました。

10世紀になり、「国家は財政難に陥り、どこの官庁も予算が行き渡らなくなり」、「官庁に所属していた職能民はそれぞれ独自の集団を形成」するようになった。「悲田院の人々も」「自力で葬送などの自らの職能をもってせいかつしなくてはならなくな」り、その集団の一つとして、11世紀半ばから12世紀頃にかけて、「非人」と呼ばれる集団が現れ、「長吏」に統括されるようになる。

この人たちは仏教の修行としての托鉢、乞食をすると同時に、死体の葬送に携わりました。さらに、罪を犯した人々に対して刑罰を執行する刑吏としても活動しています。それは、罪のケガレのキヨメであり、当時の最も重い刑雑である住宅破却、つまり家の取り壊しを非人の集団が行っています。時代が降り、保元の乱以後、貴族たちの間で死刑が行われるようになると、死刑執行人になる場合も見られるようになります。

非人の集団が集まる拠点は「宿」と呼ばれ、京都の清水坂や奈良の奈良坂に「本宿」と呼ばれる大きな拠点があり、畿内を中心に点在する「末宿」と本末関係にあり、それぞれの宿の「長吏」に統括されていた。
ただし、この非人の集団は差別語ではなく、人的集団を率いる長を意味しており、「非人」も差別語ではなかったと網野氏は言う。

当時は、あの(奈良の興福寺の阿修羅像)ように異様な姿をして仏を守護する役割を果たす人のことを「非人」と称しています。つまり、まさしく人の力を超えた存在として、「人ならぬ姿をした人」という忌みで使われています。
…すなわち神仏の直属民でした。清水坂の非人は祗園社・延暦寺と深い関わりを持ち、「犬神人」「釈迦堂寄人」と呼ばれていました。

このように非人は神仏の直属民ですから、当時の人々は非人に手をかけると神罰・仏罰がたちどころに下ると考えていました。ですから、非人は他の人々に恐れられていたことは確かですが、それは賤視されていたというより畏怖されていたと考えるべきだと思います。
実際、この時期に非人自身も、自分たちは神仏のために「清目」という大変重要な仕事をしているのだという誇りを持っていました。

網野氏は、その証左として「鎌倉時代前期に奈良坂の非人が書いた訴状」にある「本寺最初、社家方々の清目、重役の非人」と称している史料や、犬神人が書いた申状を紹介している。

では、いつから「非人」に対する<賤視観>や<卑賤観>が生じてきたのか。その理由はなんだろうか。神仏に対する宗教心が低減したからだろうか。人々の「ケガレ観」が大きく変化することが起こったのだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。