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光田健輔の「独善性」

本人が「善意」あるいは「真正」と思い込んでいる場合,それを「独善」であると本人に認めさせることはむずかしい。
彼は自分の言動を「正しいこと」であると信じ,行為を「善意」から行っていると信じているからだ。その思い込みと自負心が強ければ強いほど,信念は揺るぎないものとなり,自らの言動も行為も省みることはない。まして他者からの批判を受け入れたり,自分の主張や意見を改めたり,まちがいを訂正したりすることなどは皆無だ。
なぜなら,すべてにおいて「自分は正しい」と思い込んでいるのだから。たとえ,論理に一貫性を欠いていても矛盾していても,他者の主張や意見を曲解・歪曲していても,自らは「正しい」のである。それゆえ,自らの言動も行為も,それがいかに他者に対して理不尽なものであり,不快感と嫌悪感をあたえるものであろうとも,人権を無視したものであろうとも,自分の中では正当化されるのである。

光田健輔が絶対隔離政策を推進し,患者に断種・中絶を強制し,懲戒検束権を求め,遺体解剖を際限なく繰り返したことも,彼の「ハンセン病撲滅」への使命感と「善意」からであった。
この強烈な使命感と自己犠牲の「善意」によって,彼は自らの「独善性」に気づきはしない。

二十一才ではじめてライ患者に接触以来,八十二才の今日まで,この仕事一途に没頭してきて,いまさら仇敵呼ばわりされるのは,さびしくないこともないが,それがライ医学者の宿命だと,私は思っている。しかしたとえライ患者から仇敵といわれようと,時世を知らぬ頑迷固陋とののしられようと,私は一歩も退くことはできない。私は社会をライから守る防波堤となって,堤がきれたら自分のからだを埋めて人柱となろうという,命がけの決心で暮らしてきたのだ。
光田健輔『愛生園日記』「八十二才の白頭爺」

この強靱な信念に支えられた自負心は,他からの意見など受け付けはしない。国際らい会議の決議など彼には馬耳東風であった。

1909(明治42)年,ノルウェーのベルゲンにおいて開かれた第二回国際らい会議では,次のことが決議された。らい菌は感染力が弱いこと。隔離は患者が同意するような生活状態のもとにおける方式が望ましいこと。隔離には家庭内隔離もあること。放浪患者の施設隔離については法による強制力の行使がやむえない場合があること…など。
しかし,このように国際会議が強制隔離の制限に向かっているのに対して,逆に日本は強制隔離の対象をすべての患者に広げる動きを具体化する方向へと進んでいった。そのきっかけは,1915(大正4)年に光田健輔が提出した「癩予防ニ関スル意見」であった。
その内容は,ハンセン病を予防するには放浪患者の隔離だけでは不十分で,全患者を離島に隔離することと,そのための受け皿として府県立連合療養所を拡張・新設することが必要だ,というものであった。
そして,この意見を提出後,彼は全生病院において療養所では初めての断種手術を実施している。
ワゼクトミー(断種)は国法で禁じられている。光田は弁護士や専門家に尋ねてみるが,「他の第三者が告訴すれば傷害罪を構成する」と教えられる。

善意と誠実でやることだ。勇気を出さなくては,何事もできるものではない。私が告訴されれば刑務所へ行くまでのことだと覚悟をきめた。
同書「ワゼクトミー」

1916(大正5)年,「癩予防ニ関スル件」が一部改正されて,所長による入所者に対する懲戒・検束の規定が定められた。光田健輔の意見が採用されたのである。さらに,同年に内務省に設置された保健衛生調査会は,1920(大正9)年に「根本的癩予防策要項」を決定する。この中には,患者の請求による生殖中絶方法の施行も含まれていた。

1923(大正12)年,第三回国際らい会議がストラスブールで開かれ,次のことなどが決議された。
ハンセン病の蔓延していない国においては病院又は住居における隔離はなるべく承諾の上で実施することを原則とすること。流行が著しい場所では強制隔離が必要だが,この場合,隔離は人道的に行い,かつ,十分な治療を受けるのに支障がない限りは,患者はできる限り家族に近い場所に置くこと。

この会議に出席した光田健輔は,本会議での「治療は必要だが,隔離は不必要」という発言などに対して,逆に「癩問題の危機」を感じ,帰国後に発表した論文で,次のように主張している。

患者は隔離所において治療するのが最も安全であり,軽所治癒しても療養所外では再発の可能性が高いので,療養所内にとどめて,適当な作業や重症者の看護に従事させ,院内の福利を増進することを奨励すべきである。
逃走者はあとを絶たず,悪質者を処罰する方法もない。何とかして逃亡者のない療養所にしなくてはならない。逃亡者を防ぐ道は第一に居心地のよい療養所にすること。第二には逃走できない場所を隔離すること。こうしたことを念頭において,私の意見書はできあがった。
同書「ライ予防方策 意見書の提出」

ヨーロッパ諸国が隔離政策を廃止する方向へと向かっていたのに対して,光田は終生隔離を主張したのである。光田の意見書の背景には「逃走者」の実態があり,それは彼の目指すハンセン病撲滅に対する最大の障害となる「感染」拡大につながるという考えがあった。彼にとっては「感染力が非常に弱い」という国際らい会議の見解は,感染力がゼロでない以上は拡大する危険性をもつとの認識から否定されるべきものであった。
ここに光田の完全主義とともに「撲滅」という至上命題を遂行するためには手段を選ばない強固な「独善性」をみる。彼にとっては「ハンセン病」は「敵」であり,感染源であるハンセン病患者もまた否定されるべき「敵」であった。

この光田の見解は政府に影響を与え,国際的な動向と乖離して,日本は絶対隔離へと進んでいくのである。

では,なぜ光田は「絶対隔離」にこだわったのだろうか。
『ハンセン病 検証会議の記録』(内田博文)から引用してみたい。

…それは,第三回国際らい会議で,インドでハンセン病医療に取り組んでいたロージャーが,日本のハンセン病患者を10万人と報告したからであった。光田は,この時,ロージャーが作成した国別患者表を引用し,「血統の純潔を以て誇りとする日本国が,却って他の欧米諸国より世界第一等の癩病国であることがわかる」と慨嘆した。血統の純潔を以て誇りとする日本国が「野蛮未開の土人」と同列になる屈辱,光田は,こうした意識からも他の伝染病と等しく絶対隔離する道を強行したのである。

続けて,当時の政治情勢との関連について,次のように述べている。

光田の見解が政府に影響を与えたのには,当時の政治情勢が大きく与ったといえる。1930年代に入ると,世界的にブロック経済化が目指されるようになった。日本も,東アジア圏における領土拡大をねらい,ヨーロッパ諸国に対して日本の独自性,優位性を強調するようになる。このような政治情勢の中では,第三回国際らい会議の決議に従うべきだとの考えは醸成されにくかったと考えられる。反対に,光田の発案によって開始された五千人収容計画が,ハンセン病を国辱と考える国粋主義や,隔離を正当化する社会防衛論等にも支持されて進められていくことになった。

確かに「時代の制約」はある。政治情勢・社会情勢,さらにはその時代や社会の主流となっている思想や価値観,倫理観の影響は,個人の意思や考えに深く影響を及ぼしている。だが,時代も社会もまた個人の意思や考えを反映している。個人と社会の相補的・相乗的な関連の中で,国家としての体制も政策も構築されていく。

キリスト教などの宗教者が「慰問」に訪れてハンセン病患者に信仰による救いを説くことで慰めと癒しをあたえた一方で,非人道的な隔離の実態に対して,出入口を別にされたり「垣」で仕切られたりしていることに何ら抗議もせず,ただ傍観していただけのように,「検証会議」が指摘する宗教者の責任もまた追究されなければならない。

同様に光田健輔に関しても,その功と罪の両面について追究すべきである。
私は光田健輔のハンセン病撲滅に賭けた生涯,自己犠牲を厭わない使命感,さらには彼によって多くの浮浪癩であった患者たちが救済された実績を否定するものではない。このことは正当に評価すべきであると考えている。
一方,彼によって推進された日本のハンセン病政策のまちがい,そして罪過に関して検証していくことは今後の人権問題について重要な教訓を導くことになる。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。