見出し画像

光田健輔論(27) 浄化と殲滅(8)

前回に続けて、「本妙寺事件」に関して「強制収容」後について、熊本県ホームページに掲載されている「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」より抜粋・転載しながら検証する。

https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49738.pdf

その後、収容者は患者でないことが分かった11人らを除き、全国の療養所に分散収容された(九州療養所8、長島愛生園26、星塚敬愛園31、邑久光明園44、栗生楽泉園36、児童1人は親族引き渡し)。栗生楽泉園に収容されたのは相愛更生会役員とその家族。一行は1940(昭和15)年7月16日に同園に着き、成人男性17人はそのまま「特別病室」と名付けられた重監房に放り込まれた。重監房は「全国の不良患者を収容する」として1938年に同園内に唯一開設された特殊施設である。ここには8年間に92人が監禁され、うち22人が監禁中に死亡した。17人が相愛更生会役員であることだけを理由に入れられたことは、収容する側の一方的な論理によってこの施設が運営されていたことを浮き彫りにしている。「治外法権的な場所」は本妙寺集落よりむしろ療養所の方だったと言えよう。

本妙寺集落の「一斉検挙」に際して、「検挙した患者の中不良悪性の者をどう処置するかは本問題計画当初からの悩みであった」という。それに対して、栗生楽泉園から「悪ければ悪い程喜んで引き受けるから」との申し入れがあり、結果として、上記のように37名が送られている。

『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)には37名とある。その内訳は、男17名、女10名、未感染児童10名である。彼らは当初から「不良悪性の者」とみなされて、「特別病室」に収容される手筈であった。

…長旅に疲れはてた本妙寺患者らを待っていたのは、もっとむごい仕打ちだった。すなわち「特別病室」への投獄がそれである。とは云え、先ず子供たちは別とされてそのまま保育所へ。あと27名の男女患者の取り扱いだが、偶々「特別病室」に収監しきれない人数だったため、幸い女子はこれを免れて所内の一般療舎に収容となり、男子17名だけが直ちに「特別病室」に繋がれたのだった。そしてそのうち8名は2~3日で拘留を解かれ所内に移されたが、本妙寺部落の患者組織「相愛更生会」の幹部役員を務めた中村利登治ら9名は、9月11日までの57日間、獄内の窒息しそうな暗黒と、めまいを覚えるほどの空腹と渇きに耐えねばならなかった。実際食餌といえば、朝食は薄くて小さな箱弁当に飯茶碗約一杯分程度の麦飯、それに梅干一個及び味噌汁一椀と水、昼には夕食分をふくめて箱弁当二個と梅干または漬物少々と水、これを門衛の衛士が運んだのである。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

「特別病室」の残虐さについては幾度か書いてきたので繰り返さないが、宮崎松記九州療養所長にせよ、吉見嘉一栗生楽泉園長にせよ、素直に入所する従順な患者以外、従わない患者に対する対応は「犯罪者」扱いよりも酷い。「見せしめ」とも「懲らしめ」とも思える。彼らは「救癩」を使命と自認する医師なのだ。自らの立場と言動を<正義>であると自己正当化するとき、人は何も見えなくなってしまうのだろう。

中村や中條の監禁が1940年9月11日に解かれるに当たっては、彼らと親交を結んでいた熊本の関係者の働き掛けが影響していたとみられる。回春病院のライトの日記には同年8月27日に「軽井沢から草津に行った」と記されている。…ライトとの面会が中條らの重監房(特別病室)からの解放につながった可能性がある。また、栗生楽泉園入所者自治会の藤田三四郎会長によると、同年7月31日付で潮谷総一郎が中條らの解放を求める手紙を同園に送っていたという(現物は現在、所在不明)。同様の嘆願書は、同年9月3日付で、相愛更生会役員の亀村正善と親交があった熊本市花園町の神原春吉、加藤泰堂の2人も同園の吉見嘉一宛に送っている(『風雪の紋』)。潮谷はさらに栗生楽泉園を訪問し相愛更生会の会員たちと面会。「ともに祈りをささげ涙を流した」と同年11月1日付の日本MTLの機関紙に記している。面会したのは 9月下旬とあり9月11日の解放を確認したものと思われる。

このように、意に染まない患者を独善的に「不良悪性の者」と断じて「特別病室」に拘留する医者もいれば、遠く草津まで訪ねて安否を心配する者や「特別病室」からの解放を嘆願する手紙を送る者もいる。このことからも本妙寺集落の患者たちが宮崎や十時たちが決めつけたような「不良悪性の者」では必ずしもなかったことは証明されるだろう。要するに、絶対隔離主義者にとっては「目の上の瘤」であり、熊本県の衛生行政や警察にとっては「無らい県運動」の最大の障害であったということだろう。

九州療養所の宮崎所長は前述の厚生省予防局長宛の私信で「この際徹底的の善後措置を講ざれば癩部落再建の虞あり」としている。こうした要望を受けて本妙寺集落には事件後、さらに徹底した解体の圧力が加えられた。事件からひと月後に熊本市癩予防協会を設立。会長には山田県警察部長が就き、役員には県、熊本市、警察、九州療養所関係者の他、本妙寺管長や県医師会長、会社経営者も加わった。この官民連携した協会は3万円の寄付を集め、これを事業費に患者の家屋は破壊、焼却され患者所有の土地も売却された。「本妙寺の癩部落解消の詳報」では患者私財の売却代金は療養所に収容された患者に送付したとしている。しかし、『風雪の紋』によると「大方の患者は事実上私財没収の憂き目に遭い、わずかに大人一人八十銭、子供一人四十銭の見舞金が送付されただけに終わってしまった」という。

「本妙寺事件」を契機に、熊本市における「無らい県運動」はより徹底されていく。本妙寺集落は国家権力により一方的な弾圧によって消滅させられたが、彼らが目指した「自治」と「自由」は各療養所における「患者闘争」へと受け継がれていった。このことに強い感動を禁じ得ない。

跡形もなく解体された本妙寺集落だが、患者自治を目指した住民の活動は公立療養所の入所者にも影響を与えた。九州療養所では 1926(大正15・昭和元)年に入所者自治会が発足。『菊池恵楓園自治会50年史』などによると、これはその前年に本妙寺集落から再入所してきた男性が、療養所からの逃走が相次ぐのは金銭面の不安が大きいからだとして、本妙寺集落にならい入所者互助のための売店や養豚所経営を提唱したのがきっかけだった。また、相愛更生会会長の中村は楽泉園収容1年後の1941(昭和16)年の同園自治会役員選挙で最高票を得た。園側の反対で役員には就けなかったが、1942(昭和17)年の「17年事件」と呼ばれる重監房焼き打ち計画でもそのリーダーに担ぎ出されようとした。その際、中村は「わしは本妙寺の患者集落を確固とした形態にし、療養所などには入れられまいとあらゆる努力をした。にもかかわらずこの園に収容されてしまった。その時点からわしの役割は終わったと思っている。いまさら再度、官憲と闘う意志はない」と固辞した(沢田五郎『とがなくてしす』)。結局、この計画は事前に園側に発覚して未遂に終わり、中村も事件後に園から出されたが、中村らの相愛更生会の活動は楽泉園入所者を触発し、戦後の重監房問題告発にもつながる同園での入所者人権運動の源流になったともいえよう。

中條は栗生楽泉園で英国聖公会教会の執事を務め2002(平成14)年に93歳で亡くなった。中條は同園の療友や家族にもほとんど本妙寺集落について語ることはなく沈黙を守ったが、同教会で共に活動し現在、菊池恵楓園に入所している太田国男は中條から「中村理登治という男は立派な人物だった。彼は高い理想を持っていた。それに私も共鳴して一緒に活動したんだ」と聞いたという。「高い理想」を掲げた相愛更生会や本妙寺集落は、前述したように収容側によって「犯罪者集団」「不良患者の集まり」のイメージがつくられた。1947(昭和22)年、楽泉園の重監房廃止をめぐり、光田健輔は一松貞吉厚生相宛の嘆願書で「不良癩患者に反省を促せしのみならず熊本市本妙寺癩部落の一掃の如き本邦永年の懸案解決したるが如き又各大都市を中心として浮浪徘徊する不良癩患者の激減は実に栗生楽泉園に特別病室(重監房)の設けありしに因るもの」と記している。戦後においても収容側が強制収容や懲戒検束、重監房設置の正当性を主張するに当たって、相愛更生会や本妙寺集落は「犯罪者集団」「不良患者の集まり」でなければ不都合だったのである。近年のハンセン病史研究書にもそうした収容側の一方的な論理を検証することなく、偏見に満ちた収容側資料を無批判に引いている例も見られる。この報告書があらためて、ハンセン病患者が国の強制隔離から逃れるアジールだった本妙寺集落と患者の人権活動の先駆だった相愛更生会の実像を社会に知らせ、彼らの名誉回復の一助となることを願う。

あらためて<独善性の弊害>を痛感する。「目的のために手段が正当化される」ことの恐ろしさに気づかない。なぜなら、その「目的」が<正義>と認識されるからだ。まさしく「収容側の一方的な論理」を<正義>とした「正当化」により、「無らい県運動」も「強制隔離」も「特別病室」も「手段」として「正当化」されている。
さらに恐ろしいのは、その<正義>を無批判に了承して「正当化」してしまう<善意の思い込み>である。国家のため、人びとのため、患者のため…と「思い込んでしまう善意」は、偏狭な視野と独断的な正当性を生む。


光田健輔と「本妙寺事件」の関わりについて検証しておく。

上記にも名前が挙げられている潮谷総一郎氏が光田健輔との思い出を書き記した「養護施設と本妙寺のことども」が『救癩の父 光田健輔の思い出』に収録されている。潮谷氏は「免田事件」の再審を支援した人物として有名である。この小文を読むかぎり、彼の光田健輔への尊敬と思慕の念は強い。この小文をもとにまとめておく。

潮谷氏と本妙寺集落との関わりは、昭和15年頃、彼が慈愛園の指導員をしていたとき、九州救癩協会が皇紀二千六百年の記念事業として本妙寺周辺の癩部落解決に力を入れることになり、その担当者となったことに始まる。週3回、白米や牛乳、野菜などをもって訪問し、次第に信頼を得て相談を受けるようになり、部落の秘密のすべてを提示して、根本的な解決に協力してくれるようになり、全住民の名簿も提出してくれたという。

そんなことでこのスラムは必ずしも貧乏な患者ばかりではなかった。家も新築し、資産もあって裕福な暮しを楽しんでいるものも少なくなかった。彼らは全国募金のほかは花札、女郎買い、酔っぱらいと乱れた生活をしていた。それを善導するというのだから大変な苦労であった。だが、私のいうことは殆んど絶対に近いほど聞いてくれた。私が彼らと援助団体のパイプ、窓口になっていたからでもある。

潮谷総一郎「養護施設と本妙寺のことども」

国立療養所に再度入所したい6人を愛生園まで引率した際に、熊本出身の内田守医官と事務官、光田健輔と「本妙寺癩部落の実状と解決法について」核心に触れて話しあっている。

「そこで、潮谷さんは本妙寺癩部落の担当者として結論的には、素直にいってどうしたらよいと思いますか。」
「私の考えは癩患者全員を再び療養所に入れて、療養に専念するようにしむけること以外に、彼らに真の幸福はないと思います。」
「やはりそうですね。」
光田先生は深くうなづいていられた。長時間にわたるディスカッションの結論はこれだった。
その後、厚生省の国立療養所長会議における光田先生の提案が採択されて強制収容ときまり、恵楓園の宮崎博士は督励をうけてその作業にとりかかった。私の家には宮崎博士と事務官の車が何回となく訪れ、私が書いておいて本妙寺周辺癩部落の患者住所地図が、そのまま役に立って、七月九日早朝五時希有の一斉収容が実施された。そして患者は、恵楓園、敬愛園、愛生園、楽生園に分散収容した。折しも戦時体制、患者は非常時国策の線に沿うて療養するという大義名分もあって静かな生活に安住した。これはひとえに光田先生の見識遠謀による功績であった。もし、先生の関心と救癩の闘志がなかったら、こんなに早く手際よく解決することは望めなかったろう。
(中略)
私が光田先生を知ったのは、本妙寺癩部落解決運動のためである。私は現場でその解決にあたり、光田先生は中央にあって厚生省を動かし、県庁と恵楓園をふるい立たせた。このことについては、先生は影武者だから誰も知らないしまた、光田先生もあまり口外されないので、当事者以外の人には秘中の秘話である。

潮谷総一郎「養護施設と本妙寺のことども」

一部の研究者は「潮谷は光田に利用された」と考えている。別の見解では、潮谷自身に光田健輔の影響を多分に受けた絶対隔離主義の考えがあったという。私はどちらもそうであると思っている。

光田は全患者を早期に療養所に収容することを目指しており、最大の障害を熊本の本妙寺集落と草津の湯之沢集落と考えていた。しかし、どちらも患者集落としての規模も大きく、自治組織をつくって自活していることから患者の説得はむずかしいと考えていた。そこに、現地を熟知して患者とも懇意な関係を持つ潮谷が登場した。さらに、実行部隊となる警察に大分県より山田俊介警察部長が転勤してきた。光田は「本妙寺集落解体」の準備が整ったと思ったのではないだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。