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光田健輔と「特別病室」

光田健輔の『愛生園日記』に「ライと人権」と題した一文があり,その中で「特別病室」に言及している。

…昭和二十二年五月になって,草津の栗生楽泉園に一つの事件が勃発した。それは楽生園の「特別病室」が問題となったのである。楽生園には昭和十三年以来,全国ライ療養所長会議できめて,ライ刑務所がないために,全国の療養所でもて余すような不良患者を楽泉園の「特別病室」へ送ることになっていた。社会におれば前科何犯といわれるほどの凶悪な患者をここへ送ることで,他の療養所がどのくらい助かっていたかわからない。その特別病室を不当な人権圧迫だとする患者の主張が通って,とり壊されたばかりでなく,園長は休職となった。
戦後はとくに人類の福祉が重んぜられ,また人権が尊重せられるようになって,まことに結構なことである。ただ人類の福祉のためにライを予防するのであり,予防の手段として隔離をするのである―という本末をわきまえずに,しかも過去数十年間のライ予防と療養所管理がどれほど困難なことであったか,なぜ特別病室のような監禁室が設けられるようになったのかの歴史も過程も研究しないで,人権擁護という甘いことばだけに陶酔している一部の人々もあるようだ。それらの人々が安価な感傷におぼれて,かえって人類の福祉をかき乱そうとしている自分たちの罪に気づかないのである。
特別病室をとり壊す前に「ライ刑務所」が設立されなくてはならなかったのである。どんな悪徳犯罪者でも,ライ患者であるために,送る所がないとすれば,療養所を生涯の住み家としている人々の平和は,だれが保証してくれるのだ。私はライ療養所長であるが,拘置所の所長を兼ねてはいないのである。

実態や事実を実際に見聞もせずに,憶測・推測だけで解釈する人間は少なくない。独善性の強い人間には,その傾向が強い。いわゆる思い込み,先入観から結論を先に出しての解釈である。また,一部の自分の出した結論に近い事象を取り上げて,その事象を全部に拡大させての解釈やこじつけによって自分の主張や考えを根拠づけようとする。
詭弁を弄しているとしか思えないこともある。その際,この人はどこまで実際に見聞したり事実を知っているのだろうか,直接に見ているのだろうか,と疑いたくなる。
根拠の提示にしても,権威者や学者,研究者の説や意見を都合よく引用しているだけで,まるで「虎の威を借り」ての自己正当化である。それも一方的な見方からの解釈である。

光田健輔は,実際に「特別病室」を見学したことがあるのだろうか。自らが送った患者が「特別病室」で,どのような監禁生活を過ごしているか,その過酷な処遇を知っているのだろうか,看護長であった加島正利の行為を光田は知っていただろうか,と思う。
彼はほとんど文章上の報告でしか知らなかったのではないだろうか。しかも,然したる関心も興味ももたなかったのではないだろうか。

彼にとっては自分の意に沿う患者のみが彼の「家族」であり,愛情を注いで保護し慈しむ「子供」であった。自分に逆らう患者は「不良患者」でしかなく,排除の対象として「懲戒」すべきであった。
彼の「パターナリズム」である。彼にとっての「人権」とは,彼の求める「患者」のみに認められるものであった。

療養所内における治安維持という大義名分によって「監禁室」「特別病室」「懲戒検束権」がつくられたのである。ここでも,目的のために手段が正当化されたのである。
実態を知ることもなく,何が行われているかも知らず,報告書や他者からの情報をもとにした机上の憶測,自分の考えを正当化するための独善的発想によって,人間の尊厳が冒涜され,非人間的な行為が肯定され,生命さえ奪われていったのだ。

私は,光田健輔を通して「独善性の恐ろしさ」を痛感する。このことは何も光田だけでない。個人的な遺恨によって,執拗に他者を攻撃しても心が痛むことさえない人間もいる。私には虚しいこととしか思えないのだが,光田と同じく,使命感と信念で自己の言動を正当化している人間もいる。私には単なる自己満足のためとしか思えないのだが。
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先日(2021年12月19日)の「山陽新聞デジタル」に,私にとって衝撃的な記事「ハンセン病重監房 岡山15人収監 6人死亡判明、非人道性浮き彫り」が掲載されていた。まずは全文を転載しておく。

全国の国立ハンセン病療養所入所者らの懲罰施設として群馬県草津町に戦前造られた「重監房」に、瀬戸内市・長島の長島愛生園、邑久光明園の関係者が少なくとも計15人収監され、うち6人が死亡していたことが国立の重監房資料館(同町)の調査や両園への取材で分かった。零下20度近くまで下がる寒さや食事制限で衰弱したとみられる。園内の秩序を乱したなどと恣意(しい)的な理由で送られた例もあり、国の隔離政策の非人道性が改めて浮き彫りになった。
重監房は1938年から47年まで国立療養所の栗生楽泉園に設置され、全国の療養所長が「懲戒検束権」を使って裁判を経ずに延べ93人を送り込んだ。このうち15人が収容中に、8人が監房を出て1年未満に死亡したとされる。収監者の経歴などは同園に隣接する重監房資料館が調査しており、山陽新聞社が長島の両園の記録などと突き合わせて関係者を調べた。
長島の15人の内訳は愛生園5人、光明園10人。入所者のほか、何らかの理由で退所したり、楽泉園に転園したりしてから収監された人も含む。高松市の大島青松園の入所者に関する記録は確認できていない。
1人当たりの収監期間は最短が45日、最長は549日で、100日以上は10人に上った。収監中に死亡したのは愛生園2人、光明園4人。死亡した時季は6人中4人が冬だった。詳しい死因は不明だが、楽泉園の入所者の証言や自治会資料から暖房器具のない部屋での寒さや食事制限による衰弱が多かったとみられる。
収監理由(重複含む)については、入所者の自治会が当時、園の記録を書き取った資料によると、賭博(8人)、窃盗(4人)、逃走癖(3人)、園内不穏分子(2人)、放火(1人)の順。長島の関係者以外では、精神疾患や薬物への中毒、無断外出、浮浪などの理由もあった。
ただ、「賭博」と記録された女性が関係者の後の証言では「一緒に収監された男性の妻だったため」とされるなど理由は資料によって食い違う点が多く、なお検証が必要という。同館は「詳しい個人史が分かっている収監者はまだ半数に満たない。引き続き調査する」としている。
重監房 正式名称は「特別病室」だが、療養所入所者らが使っていた呼び名の「重監房」が定着した。広さ5畳半ほどの監房を8室備え、収監者は食事制限などの懲罰を受けた。1947年に運用廃止され、現在は跡地に基礎部分が残る。入所者らの署名活動によって2014年に重監房資料館が開館し、一部を原寸大で再現している。
中尾伸治長島愛生園入所者自治会長(87)の話 
自治会には重監房に関する詳細な資料がなく、長島の関係者が15人も収容されていたとは知らなかったので驚いている。かつて愛生園の入所者が医師に逆らったときに、『草津へ行くか』と脅されたという話を仲間から聞いた。収監理由や、監房での寒さ、飢えを考えると、同じ人間のすることとは思えない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。