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「渋染一揆」関連史

●1702(元禄15)年「御役目拒否(返上)」

「穢多頭」の多左衛門が「(処刑した罪人の)死骸を取り片付ける役目は,御百姓であるわれわれがやるべき仕事ではないはずだ」と主張し,役目を公然と拒否し,争った。

慣例(死刑囚の死骸の片付けは穢多,処罰以外の死骸の片付けは隠亡)ではあっても,藩令に拒否し,係争となった。
所轄の大庄屋南方村の庄次郎の「御百姓は(死骸の片付けなど)しない。するのは乞食(非人)である。」という意見から「我々穢多は乞食(非人)とは違い,御百姓である。したがって死骸の片付けは我々の仕事ではない。」と考えたと伝えられている。
また,「穢多」身分であっても「御百姓」であるといった意識を持っており,この「御百姓」意識は,岡山藩主池田光政の言説に由来するといわれている。穢多を不浄であるという側近をたしなめ,自分の領内に住む者であれば「穢多も一統わが百姓」といった。また,光政の問いに,穢多の米は不浄の米ゆえ米で納めさせていないといったため,わが百姓に相違ない部落の者を左様に分け隔てするいわれはないと,米納に改めるように申しつけた。
身分が異なれば扱いが違うのは当然のことであり,「同じ人間」であるという意識から「穢多」扱いを受けていることに抵抗したのではなく自分達は「御百姓」なので「御百姓」として扱って然るべきといった主張である。

●1782(天明2)年「真宗(浄土真宗)への改宗拒否」

備前・備中・美作12ヶ寺に対し,真言宗から浄土真宗に改宗するように命じる。幕府の改宗強制に対し,岡山藩常福寺の檀家は徹底的に拒否する。
岡山における被差別部落の「旦那寺」は,慶長19年頃に実施された宗門改めによって檀家制度とともにつくられた。備中・美作は,被差別部落の方で僧侶を招き入れ寺をつくった。備前は,先の中納言(宇喜多秀家)の時,国守に刑番を置き,寺も置いた。元禄元年以前は,高野山寿福院を本山とし,備中の大宝寺を中本山とした,備前の常福寺,備中の増福寺,美作の大法寺という関係があったが,本山が退転したため1688(元禄元)年以降は本山をもたない単独の寺となった。
改宗は,大法寺の住職であった海順の訴状が契機となった。海順は修行のために本山を求め,高野山の金剛峰寺に本山を頼むが,皮田の寺で真言宗の末寺はないと断られた。海順は,本山を求めるきっかけとなった本願寺の塔頭・金福寺の僧,玉琳の「もし浄土真宗でよければ金福寺の末寺になりなさい」という言葉に従おうと考え,檀家に話した。15ヶ村の内11ヶ村は賛成するが,有力な檀家が反対する。そして,海順が所用で大阪に行っている間に,海順を寺から追放した。海順は困り,久世の代官所や大阪奉行所に訴え出るが取り上げてもらえず,ついに,大阪で目安箱に訴状を投書した。老中田沼意次のもと審議され,12年後の1782(天明2)年,万年七郎右右衛門(大阪代官)によって「真言宗に皮田寺はないのだから,一向宗(浄土真宗)であるべきだ」と判決が下された。この結果,美作・備中の寺は改宗した。備前には皮田寺は常福寺しかなく,その頃の住職であった智信(智心)は檀家の強固な反対のため退院してしまう。これに対し,岡山藩は強制的に改宗を命じることはなく藩内の真言宗の仮旦那とした。仮受入先となった真言宗の寺院は常福寺の檀家に対し,葬式があっても戒名だけつけて葬式には行かない(送戒名),法事があっても行かないといったことをし続けた。しかし,常福寺の檀家は常福寺の再興を要求し続けた。1796(寛政2)年,新しく神社奉行となった湯浅新兵衛によって,明王院の弟子「周温」を住職とし真言宗の寺院として常福寺は再興した。
「渋染一揆」において指導者的役割を果たした城下5ヶ村も常福寺の檀家であり,最初の惣寄合が開かれ,以後も度々寄合いがもたれた場所が「常福寺」でもある。

●1794(寛政6)年「伊勢大神楽事件」

岡山県上道郡の村々を伊勢大新楽の一行が神楽を勤めていた。穢多達が自分たちの村でも神楽を勤めてくれるよう楽頭に依頼したところ拒否された。そこで,穢多達は,楽頭に激しく抗議した。そのため楽頭は,その地域を治めている名主の元を訪れ,穢多達を抑えるよう訴え出た。ところが,名主はなにもしなかった。困り果てた楽頭は岡山藩に訴え出た。その結果,伊勢大新楽の一行はこの地域にて神楽を勤めることを禁止され,以後,慶応3年まで来ていない。
当時の社会的地位の向上,分け隔てに対する抵抗・抗議が日常的に行われていたことが窺える。穢多村は少数であり本村(百姓)が多数の環境でありながらも,百姓に引けを取ることなく自分達の主張をしていた。百姓と同等の扱いを求め,拒否された場合は実力行使も行っている。

●1796(寛政8)年,15年にわたる(常福寺檀家による)改宗拒否および抗議を受け,常福寺が(真言宗のまま)再興となった。

●1833(天保4)年,衣類・家の造作・傘下駄の使用などの取り締まり令を発令する。

●1842(天保13)年6月,「穢多隠亡之類居小屋衣類等平人に紛し不申様別て引下がり可申・・・(えた おんぼう などといった者の家の造りや身なりが平人(百姓・町民)と区別できない状態となっているため,それぞれが身分をわきまえるべきである)」と申し渡す。

●同年7月,「風俗取締令(倹約令)」を発令し穢多の衣類について紋なし藍染・渋染に限定したが,目明かしを通じて嘆願し撤回となる。

●1843(天保14)年,1833年の取締令を繰り返し発令する。

●1850(嘉永3)年,1833年の取締令を繰り返し発令する。

●1855(安政3)年12月,倹約御触書(倹約令29箇条)を発令する。

●1856(安政4)年1月,発令された「別段御触書(5箇条)」の撤回を求め,嘆願運動を始める。

●1871(明治4)年,解放令 → 解放令反対一揆

●1902(明治35)年8月,三好伊平次が備前・備中・美作など県下の同志に呼びかけ,岡山市外石井村の常福寺に,県下の部落代表52名を結集して「備作平民会」の創立大会を開催した。三好は,岡崎熊吉とともに総務として,この運動を全県下に拡げた。全国に先駆けて結成された部落民が自らの力で差別を摘廃しようとした全県的組織であった。

●1921(大正10)年,水平社創立

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。