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「渋染一揆」再考(1):衣服統制

なぜ「無紋渋染藍染」に抗したのか

「渋染一揆」の最大の疑問は,なぜ岡山藩は穢多身分に対して「無紋渋染藍染」の着物を強要したのか,なぜ穢多身分の人々は「無紋渋染藍染」の衣服を強要されたことに抵抗したのかである。従来より諸説あるが,それらを批判・検証することは考えていない。人それぞれの方法論で史実の解明に向かえばいいと思う。私は,史料や参考文献を読みながら他説を参考にして自分なりの考えをまとめていきたいと思っている。

気になっているのは,「目明」「牢番」の役負担と着衣との関係,「身分相応」「礼義引下」という言葉と「御触書」との関係である。

「別段御触書」(安政2年「御倹約御触書」の24条~29条)の2条と5条について原文と現代語訳文を書き出してみる。

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事 (別段2条)
目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない
番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事 (別段5条)
番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である

これに先立つ天保13年(1842年)に出された「御取締御触」にある同様の条文を書き出してみる。

目明シ共義ハ平日ノ風躰平人とハ相別り居申事故,衣類之義ハ先つ是迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事

素朴な疑問だが,「目明」の風体=身なり(服装・衣類)は百姓(平人)とは日頃より異なっていたということはどういうことなのか。「風体」とは『広辞苑』によると「なりかたち。みなり。特に、身分や職業をうかがわれるような外見上のようす」とある。つまり,日頃から「目明」とわかる特別な身なりをして「役目」についていたということである。ただし,実際にそのような「風体」で日常生活,あるいは役務に従事していたかどうかは定かではない。百姓や平人とは「相別」ということは,百姓や平人から見ると,一目で自分たちとは異なる「風体」から「目明」であることがわかるということだ。だから「衣類之儀ハ先迄之通差心得」なのである。
ところが「嘆願書」には,次のように書かれている。

…… 盗賊又は強盗・荒破者等参居申時,其村引請番役人ハ不及申上,其外無役之者迄,即座一命可相拘も不厭候て,御用出精致,奉尽御忠勤所,右躰之衣類着用仕候てハ,御城下或は在々浦々到迄,盗賊又ハ胡乱ケ間鋪者,遠見より道ヲ替,逃隠行逢ひ不申,色々徘徊,左候得ば,人相見立ハ猶以難出来。然上ハ,召捕候義相成り不申。
盗賊や強盗,乱破者などがやってきた場合,その村の番役人は言うに及ばず,その外の一般の者まで,即座に,一命を投げうつのもかまわず御用向きを勤め,忠勤を尽くしておりますところです。右のような衣類を着用するようになりますと,盗賊とかあやしい者は遠くからこの衣類を見て道を替え,城下,あるいは村々や浦々まで,番役に行き逢わないように逃げ隠れし,処々を徘徊します。そうなれば,捕らえることができなくなります。

「御触書」と「嘆願書」のちがい(矛盾)をどのように考えればいいのか。藩側(「御触書」)は,「目明」を勤めている「穢多」は日頃から身なりがちがっているから着衣は今まで通りでよいという。穢多側(「嘆願書」)は,「無紋渋染藍染」という「特別」な衣服では,盗賊などに遠目からでも見分けられてしまうから「役目」を果たすことができないと主張する。
藩側の主張からわかることは,穢多の中では「目明」「番役」を勤めている者とそうでない者がいる。「目明」を勤めている者は直衣は従前通りでよい。その理由は「百姓や平人」とは「ちがう」身なりであるからで,「番役」も他所に行くときは従前通りでよい。

穢多側の主張からわかることは,「目明」の「役」についていない者も「御用」に協力している。だから,特別な衣服では盗賊などにわかってしまうので「御用」の協力ができなくなる。
「目明」の「御用」を勤める穢多は百姓とはちがう特別な身なり(衣服)をすることになっている。しかし実際には特別な衣服を着ていなかった。あるいは着る必要性が少なかったので,現実にはそれほどに問題とは感じていなかった。つまり百姓とのちがい,見た目での分け隔てはなかった。日常生活における不自由・不満はなかった。しかし,「無紋渋染藍染」に衣服を限定されれば,「見た目」での相違が明確になる。身分の差がはっきりと確認できてしまう。このことは彼らにとって非常に難渋することになる。なぜ「難渋」することになるのか。

このように考えていくと,「無紋渋染藍染」の衣服は,藩側にとっても穢多側にとっても「特別な衣類」であることはまちがいない,問題はその「意味する」ところです。藩側は「目明」の「風体」(身なり)を百姓や平人とは異なるから構わない=「無紋渋染藍染」でなくてもよいとしている。「風体」であって「衣類」と書いていないこと,「嘆願書」に「無紋渋染藍染」では見つかってしまうと主張していることなどから,もしかしたら「衣類」ではないかもしれない。見た目の様相(姿)であるかもしれない。たとえば,捕物帖などに出てくる十手を持った「親分」の姿であったのかもしれない。しかし,それこそ遠目からも見分けられることになり,まして「鬼平犯科帳」に出てくる「密偵」などのようにはなれない。「密偵」を現在の「私服警察」と考えれば,百姓や町人と同様の容姿でなければ役に立たないでしょう。「鬼平犯科帳」には「変装する」同心が描かれていますが,江戸時代は「面体」(髷においても身分や職業,住む地域に応じた髷があった)によって身分が(「面体を隠す」の言葉が残っているように)はっきりと分けられていました。あるいは,見分けられる様相(風体)であっても,それが睨みをきかす「親分」であれば,今更,衣服がそれ以上の「特別」になっても構わないだろう。

「御触書」から考えると,「無紋渋染藍染」は「特別な衣服」ではあるが,「目明」という役目には直接は関係ないことになる。着る必要がないからだ。「番役」にしても同じく,「他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申」ですから関係ないはずだ。当然に「色」にも意味はないと考える。「色」に関係があったとしても「見分け」「相違の明確化」に関連してのことであったと考えた方がいいと思う。「嘆願書」にある「役目」の妨げになるという先の一文は主の「理由」ではない。藩側を説得するための「理由」でしかないと考える。

むしろ,注目すべきは「右躰之衣類被為仰付候ては,老若男女に到迄精気落」「右躰之衣類,追々着用仕候てハ,世間通行相叶不申程の御趣意被為仰付」の一文ではないかと思う。
それから岡山藩城下は江戸のような大都市ではない。役人村であった城下五ヵ村にしても町ではなく城下周辺の農村に位置している。城下町の「目明」として犯人逮捕というより番役として街道筋を見張っているか不審者の村内侵入を見張るのが役目であったと考える。
「渋染一揆」に関しては未だ不可解・不明確な部分が多くある。「無紋渋染藍染」に抗した理由についても藩側・穢多側の両方の史料に明確に記述されていない。「口書」(供述調書)にも書かれていない。なぜ明確に理由が書かれていないか,しかも今回(安政2年)が初めての御触ではなく,天保13年(1842年)にも全く同じ御触が出され,それは「嘆願」によって撤回させている。「藍染」は通常の衣類にも用いられているが,「渋染」は脚絆や前掛などに用いられるのみで衣類には不適用な素材である。潜んで見張る際に強盗や害虫などに対する防護服とでも考えたのかどうか。そのような理由付けの記述もない。

「渋染・藍染」に関してはもう少し考えてみたい。ただ,彼らが「無紋渋染藍染」に抗して立ち上がったことは史実であり,事実上の空文化に成功したことも史実である。
ここで疑問点を2つほど。1つは,「歎願書」に書かれた言い分(理由)の真偽である。「歎願書」には自分たちが経済的には貧しい状況であると書いている。しかしながら,相対的ではあっても果たして経済的にはどうだったのだろうか。

「歎願書」が実態であったのかどうか,疑問にも感じている。相対的に考えて,平人(百姓)と同等かそれ以上の暮らしであったと思う。前後の文脈から考えても,貧しさを強調する一方で,それでも年貢をきちんと納めていると,自分たちの農業や番役についての忠勤ぶりを誇張するための方便とも受け取れる。

2つは,「歎願書」に書かれた穢多身分の生活実態が事実として,それにも関わらず(それを知っていて),なぜに「定紋」の禁止を命じたのか。また,穢多身分の生活状況を知らなかったにせよ,なぜ「定紋」の禁止を命じたのか。つまり,穢多身分の側からではなく,命じた岡山藩側の意図を考える必要がある。平人に向けた24ヵ条には「定紋」に関する規定はない。
もし,29条が「倹約」を意図してのものであれば,穢多身分より圧倒的人数の多い平人にこそ,着物の新調を禁止した方が,救済米の減少や年貢納入の不足などによる経済効果をはかることができる。

彼らの「歎願書」を「屁理屈」と大庄屋が言い捨てている。平人は穢多身分の生活状況や経済力を見知っていたのではないか。そして,彼らの生活実態を役人や郡奉行に報告していたとも考えられる。だからといって,平人以上の倹約を命じて一体何のメリットがあるだろうか。この考えでは,従来の「近世政治起源説」の「分断支配」「百姓に優越感を感じさせる目的」と同じでしかない。私は,「別段御触書」の目的を経済的な意味での「倹約令」ではなく,身分制の乱れを正すという意味があり,そのための見た目の「差異」の強調化・顕在化であったと考えている。
「定紋」を付けることは許された身分と,そうではない身分に「分け隔てる」ことが目的であったと考えている。平人との「分け隔て」こそが彼には耐え難い「差別」であったのではないか。この意味から,「家紋」は彼らにとって「こだわる」必要があったのではないか。日頃は安い他家の家紋の着物であっても構わないが,特別なときには自らの「家紋」「定紋」を着る。それさえもが禁止される。このことは自らの「家紋」の否定とさえ感じられたのではないかと思う。江戸時代は自家の「由緒」にこだわりをもっていた。また「家」にも強い意識をもっていた。穢多身分とても同じではなかったか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。