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人が人を語ること(1):「引用」の怖さ

昔,大学時代に恩師から研究論文を書く際の注意事項をきびしく指導された。
その教授は「本物の研究者は決して論文や著書を多産しない。何年,何十年と万巻の書物や史資料と格闘しながら,思考を重ね,言葉を選別し,推敲を繰り返して論文を書き上げるものだ。まして他説を批判する場合は思いつきや一時の感情で安易に行うものではない。その相手が読み解いた論文や書籍までも読み込むべきである。批判とは間違い探しではない。相手を貶すことを目的としてはならない。弁証法的に発展させていくものである。」と常々語り教えてくれた。彼の同僚であった哲学の教授はまさしくその通りの研究者であった。彼女が退官近くなって上梓した思想史の著書はその分量(ページ数)もだが,内容が重厚であった。

昨今のネット上に流布している論文まがいの文章を読むにつれて,改めて文章を書くこと,「批判」することの重さを,恩師の教えとともに痛感する。

自分と意見が相違する相手や論文などを「批判」する場合,相手および相手の主張する意見を十分に調べ上げ,相手の<真意>や<本旨>を理解した上で論理的に行うべきである。これは当り前のことである。相手の主張や意見を理解するためには,せめて相手の著書や論文などを数冊以上は読解する必要がある。たかが一冊の書籍や論文,講演録くらいで,その相手の<本旨>などわかるものではない。

また,自分の意見や主張を絶対化して,相手を「批判」する目的だけで読解すれば,相手の意見や主張など到底理解できるものではない。これも当然のことである。その結果,的外れな解釈,歪曲・曲解が生じるのだ。そこに敵対的な感情が入り込めば,理解する前に否定的・攻撃的な読み込みになるのも当り前のことである。相手を否定することが前提となった解釈ほど,独善的なものはない。独り善がりな解釈からの理解は,単に自説を正当化するための曲解に陥り,本質的な論議にはならない。それは「批判」ではなく,「非難」でしかない。

自説を正当化する「手段」として,相手あるいは他者の論文を「引用」することを「批判」とは思わない。それは自分にとって都合のよい「手段」としての「利用」でしかない。その場合においても,都合のよい部分(文章)のみを切り貼りする行為は,相手あるいは他者にとって失礼極まりない。なぜなら,相手あるいは他者の<真意>や<本旨>を正確に理解した上で反映(引用)してはいないからである。(その一文やその表現などの)言葉尻のみをとらえての場合もある。前後の文脈を省略しての引用もある。相手の言説や主張を正確に読解し,その上で自説を展開するべきであって,否定したり扱き下ろす材料にしてはならない。これは研究者だけでなく,文章を書く上で誰もが守るべき最低限のルールでありマナーである。
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小浜逸郎『日本の七大思想家』の「吉本隆明」の章に,次のような文章がある。

第一に指摘すべきは,吉本が親鸞の文献を直接引用せずにすべて「私訳」で通しているが,その訳文にあまりに誤訳が多く,また解釈についても曲解が多いということである。この問題は,一見技術的巧拙や粗雑さの問題に還元できるように思えるが,じつはそうではなく,親鸞を読み込む吉本の思想的問題として看過できない重要な意味を持っているのである。

…まず問題は,なぜ吉本が親鸞の宗教思想に対してこうした誤訳,誤読,自己流解釈をかくも多くなすのかという点にある。
答えは簡単である。これらの誤訳,誤読,自己流解釈は,すべて親鸞の思想そのものに「造悪論」を許容するような内在的な要素があったということをあくまでも主張したいという動機から来ている。

…したがって「造悪論」は,親鸞の説くところを意図的に曲解したものであり,むしろそこには親鸞の思想の最も大事な部分を貶めようとする歪んだ動機がはたらいているとさえ言える。

このように,吉本の誤訳,誤読,自己流解釈は,すべて造悪論が親鸞の思想の中に内在していることを強引に証明しようとしたところから出てきたものである。

長々と引用したが,ここで私が論じたいのは親鸞の思想でも,吉本隆明の親鸞に関する解釈でもない。また,小浜氏の指摘が正しいかどうかの考察でもない。
吉本隆明の「誤訳・誤読・自己流解釈」がどうして生じたか,なぜ彼はそのような愚の骨頂のようなことをしたのか,についてである。

若き日,吉本隆明に傾倒していた時期がある。『共同幻想論』『心的現象論序説』『言語にとって美とはなにか』『異端と正系』『マチウ書試論』など,何度読み返しただろう。ノートに抜粋しながら自分なりの解釈を書き綴るほどだった。その理論と思索に圧倒されたほどの吉本隆明がなぜにそのようなことをしたのか,彼ほどの思想家が…。その真意の是非を論じることも今の私の目的ではない。

私が問題にしたいのは,吉本が「意図的に」誤訳・誤読・自己流解釈をしているという点であり,それは自らの「主張」を「証明」するためであったという点である。

相手を批判するならば,まずは相手の考えや理論,主張を「正確に」読解することが前提条件である。その上で,相違点・問題点を明確にして批判するなり,自らの考えや理論,主張を展開するなりすればよい。ただし,相手の人間性や人格にまで言及することは論外である。

吉本だけではなく,自らの「主張」を絶対化(絶対的自信のために)するあまり,他者の論文や著書を「誤読」し,自らの「主張」を「正当化」するために,他者の「主張」(論考)を「自己流解釈」する人間は少なからずいる。
「意図的に」(確信犯的に)「誤読」「自己流解釈」を繰り返して,自らの「主張」や(相手への)「批判」の正当化を図る。しかも,「誤読」にせよ「自己流解釈」にせよ,少しも悪ぶれず,自分の「視点・視角・視座」からはそのように「読解」でき,そのように「解釈」できると豪語する。書いた本人がいくら「それはちがう」「そのように主張していない」と言っても聞く耳を持たない。書いた本人の主張や意見,論旨,真意とはまったく異なる「自己流解釈」をすることを何とも思わない。そして,「自己流解釈」の果てに,書いた人間の人格にまで言及して非難する。それはどう考えてもおかしいだろう。

まるで,A(書いた本人の真意)をB(自己流解釈)と断定し,BなのだからC(類推して)であると決めつけ,Cのような人間(考え)はD(推測して)でしかないと結論づける。まさに,このような論法である。デタラメな「三段論法」であり,そもそも論理学どころか思考の前提条件(対象を正確に把握すること)から破綻している。

小浜氏の同書よりもう少し引用する。

有名な三顧転入のくだりだが,この吉本訳では,本文には見られない言葉がやたらと出てくる。「自力をまじえた」「<知>をたよらない」「計らいの名残りをのこした」「絶対に帰依する」「<知>にたよらないだけの」「<知>を絶した絶対他力」がそれである。
山カッコつきの「知」という言葉が何と三回も出てくる。一見して明らかなように,吉本は,親鸞の宗教思想の中に,自己流の「知」職人批判の思想を無理に注入しようとしているのだ。

他者の著作や論文などより引用する場合,引用文中に自分の言葉や文章を加えることは「補足」か「注釈」の場合であって,その際には決して著者の文意を変えてはならない。深読みも推測も許されることではない。批判する場合は,引用文とは別に一文を書くべきである。「本文に見られない言葉」など以ての外である。

しかし,これも吉本だけではない。私も,ある人物(Y氏)から同様の手法(筆法)で,私の真意とは真逆の引用文を捏造されたことがある。私が言っても書いてもないことが,「 」を使用した引用文の形で書かれ,継ぎ接ぎだらけの「引用文」は,その人物の「自己流解釈」に合うように改竄されて,私の文意とは真逆の文になっていた。そして,その「引用文」を私が書いたものとして批判することで「自己正当化」していた。なんと姑息な手法を使うのかと呆れ果てた。

「引用」に関しても,前後の文脈を無視して一部分のみを恣意的に抜き出して批判する手法がある。自らの主張に合致する,あるいは批判の核心に当たる部分を的確に抜き出す「引用」は意味があるし,正当な「引用」と批判であると考えるが,それさえも前後の文脈や著者の主張を正しく表現している文章を「引用」すべきは当然のことである。だが,意図的(悪意的)に「引用」することで自己正当化(批判の正当性)の材料・証拠とするのは,著者に対する冒涜である。

その人物(Y氏)は、私の行った講演を文字に起こした「講演録」をテキストにして長々と分析・考察しているが,よくここまで曲解・歪曲、その上で独断と偏見による断定ができるものだと呆れ果てる。立場や考えの相違はあるのは当然だが,相手の真意を正しく読み取った上での批判ではなく,自分に都合良く解釈して(つまり意図的な曲解)の批判でしかない。なぜなら,講演した私本人が真意(本旨)とはかけ離れた解釈であると断言しているのだから。読解力や理解力の欠落ではないとすれば,意図した悪意でしかないだろう。

私も,自らの「講演録」を読み返しながら,Y氏の書いた文章と読み比べてみたが,「講演録」にない文言が私の言葉として「引用」されていたり,前後の文脈と切り離された部分が繋ぎ合わされて「作文」されたものが「引用」とされていたり,私の主張や真意が真逆に作り替えられていたり…無残なバラバラ状態で(都合良く)「批判」の俎上に乗っていた。試しに何人かに私の講演録とY氏の文章を比較して読んでもらったが,一様にどうしてこのように解釈できるのかを不思議がっていた。
そのほんの一部を抜き出してみる。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏に、そのような逸脱を強いるもの・・・、それは、藤田孝志氏の中にある、「部落になりたいのに、なれない。でも、なんとかして部落になりたい・・・」という思いにまで発展する、中学校教師・藤田孝志氏の「部落解放」・「人間解放」に対する熱い思いが、あえて、同和教育・部落史学習における被差別部落の生徒を<偏愛>する教育へと駆り立てた

岡山の中学校教師の藤田孝志氏、その同和教育・部落史学習の実践においては、<被差別>の立場に立つ生徒の側に意図的に身を置き、藤田孝志氏、それを「被差別の立場」と呼びますが、<主観的>な「被差別の立場」から授業を実践されてこられたようです。

「学校教師は、その授業実践において、いかなる生徒に対しても平等に、客観的な価値判断のもとに指導しなければならない・・・」と考える筆者にとっては、藤田孝志氏の授業実践、それが、たとえ、藤田孝志氏の高邁な「部落解放」・「人間解放」にかかわるものであったとしても、<被差別>の立場にある生徒に対する<偏愛>でしかないと思われます。

上記の文章においても,引用符(「 」)は私の言葉になっているが,「部落になりたいのに…」の部分など,私は言って(書いて)はいないし,思ってもいない。Y氏が勝手に臆測しているだけである。私が言っている「被差別の立場」を「部落になる」と強引に解釈しているように思える。
私が言う「被差別の立場」とは、差別を受けている立場の人間、被差別者の側に立つことであり、差別を受けた人間の「痛み」「苦しみ」「悩み」に深く共感すると同時に、「差別(者・側)の立場」に対して冷静に客観的に考察しつつ「糾弾」「批判」「改善」をはかっていくことで「解決」「解消」をめざす立場である。

それを私が言っていたり思っていたりしていると思わせる「引用形式」の書き方をあえてすることで,自説の信憑性・正当性を強調する姑息な手法である。このような「批判」文章のみを読めば,引用の切り貼りによって,私がそのように(Y氏が言うように)考えていることになってしまうだろう。そうなるように私の文章のいくつかを切り取って繋ぎ合わせて「作文」しているのだから,私の本旨とはかけ離れた解釈(Y氏の「批判」に合致するように作られているのだから)に到るのは当然である。(論文と称するものにおいて,このような手法は通用しないはずだが…)

※ 補足
「差別・被差別」の問題に関しては,拙文「被差別の呪縛」に私の意見を述べている。私は「被差別者でなければ差別者である」という対立構造や二律背反の考えそのものを否定している。人間をその(差別)行為や言動ではなく,生まれながらの立場によって規定することこそがおかしいと考えている。「被差別の立場」とは,差別者でも被差別者でもなく,差別に対して主体的に取り組んでいく立場であると考える。その立場に立つには,差別者(加差別者)では痛みも苦しみも,理不尽さも理解できないだろう。なぜなら,差別する人間(加差別者)による差別言動によって被差別者は悲しみ苦しむのだから。差別者の立場から被差別者の苦しみも悲しみもわかるはずはないだろう。例えば,いじめの問題を考える場合,いじめをした側の立場で考えるだろうか。いじめを受けた側に立って考えるだろう。もちろん,両者の言い分も客観的には判断するが,いじめの苦しみや悲しみ,辛さをまずは受けとめるためにもいじめを受けた側に立つだろう。差別の問題も同じである。差別者の立場で差別問題を考えることは,いじめをする立場からいじめを考えるのと同じである。「授業実践」「平等に」「客観的な価値判断」などの言葉がいかに空疎なものか。現実や実態を知らない人間,机上でしか本の中でしか考えられない人間の絵空事としか思えない。

「被差別の立場」に立つことで,差別を受けている者の痛みや悲しみに共感し,共に差別や人権問題に取り組んでいく生徒を育てることができると考えている。このことが,なぜ<偏愛>になるのか,なぜ「平等」ではないことになるのか,まったく理解に苦しむ。私の授業(通常の授業や教育活動,生徒との関わりなど)を一度も見たことも聞いたこともない人間が,そのように断定できるのかと,その独善性が恐ろしい。

上記の「批判」文章の引用元である私の文章(講演録)を掲載しておく。

さて,「被差別の立場」とは何でしょうか。部落の方の思いを感じる。差別の厳しさを感じる。それを「被差別の立場」と言ってきました。われわれ教師は,部落と部落外の関係性の中のどこに立ってきたでしょうか。われわれはここ(私はホワイトボードに図化して説明しています。図では,<部落=被差別者><部落外=加差別者>と対立させて書き,その逆三角形の頂点を「ここ」と表現している。つまり,両方を客観的に見ることができる立場)に立っている。そして客観的に部落を見,加差別者を見る。われわれはこの位置に立っています。もちろん部落の人間になることはできないし,そんなことを部落の人間は求めてもいません。

よく踏まれた者でないと足の痛さはわからんと言います。それはどういう意味かと,被差別の立場に立つことは自分にはできないのかと悩んだことがあります。ある時,気がつきました。その言葉は,お前たちはここ(部落外)に立っている。確かに差別はしていない,でも,その立場はただ客観的に見ているだけじゃないかという意味だとわかったのです。他人事への批判の言葉なのです。ここに立って両方を平等に見て,どの子も平等に,というわれわれ教師の悪しき弊害が,この場で生まれてくるのではないでしょうか。

では,「被差別の立場」に立つとはどういうことでしょうか。先ほどからずっと私が言ってきています。「被差別の立場」に立つということは部落を見つめることではないんです。「被差別の立場」に立つということは<差別と闘う位置>に立つこと,つまりわれわれはここに立つことはできるんです。部落の人間そのものになることはできない。でも,部落の方に向けられるこの差別の眼差し,差別の視線に対して真正面から受け止めて,そしてその差別と闘っていく立場に立つことはできるんです。私はこれを「被差別の立場」だと思っています。差別をなくしていく主体者に自分がなった時,その立場こそが「被差別の立場」ではないでしょうか。

私は「被差別の立場」に立って,差別の現実をしっかり受けとめて(理解して)主体的に差別をなくす闘いをすべきである,と主張しているのであるが,Y氏は「被差別の立場」=部落であり,部落の子のみを大切にする「偏愛」の教育者だと決めつけている。上記の私の文章の「どの子も平等に,というわれわれ教師の悪しき弊害」の部分を私の意図とは真逆に解釈したのだろうと想像するが,そう解釈する前提に,私への悪意か憎悪か敵意かが見え隠れするのはまちがいだろうか。

批判するのであれば,論評するのであれば,何よりその人間の真意や主張,本旨を正確に把握するのは当然である。たかが一遍の講演録だけですべてが理解できるはずなどありえない。多くの書物を援用して解釈に正当性を持たせようとしても,いくら推論を重ねたとしても,一冊の書物だけでは臆測の域は出ないだろう。(いくら私でもそのような無謀な暴論を書くほど厚顔無恥ではない)

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。