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「誹謗中傷」の背景

「誹謗中傷・罵詈雑言」の背景を様々な角度から検証していると、いろいろと不可思議なことが明らかになってくる。

誹謗中傷の投稿をした人間がその理由について、皆(書き込み・コメント)に流されて、噂や(ネット上の)情報を鵜呑みにして、(許せない・怒りがわいて)一時的な感情から後先考えず…といった「軽率」「軽薄」を「言い分け」のように使っているが、そんな表面的な言葉に隠れた「煽動者」の実体が見え隠れしている。(デマを流して儲けている人間もいる)
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この「記事」を読みながら、そこまで「悪意」のある人間がいるのかと思う人もいるだろう。しかし、面と向かっては言えないだろうが、ネット社会の匿名性という隠れ蓑や自分だけではないという集団心理(群集心理)の作用によって、人間の内なる「悪意」や「攻撃性」あるいは一時的な感情という「軽率さ」が発言してしまうのだ。なにより相手が見えないこと、自分とは直接に関わりがないこと、つまり現実感や生活感のない仮想空間に向けての発言であることが、現実的な罪悪感を希薄にしてしまうのだ。
最も危険なことは、まるでゲームのように、自分はもちろん他者の「痛み」を感じないことである。自分の「攻撃」によって相手が受ける「痛み」を実感どころか想像もできないことが、過激さと辛辣さを助長する。

人間は、眼前で血を流し、激痛に苦しむ姿を見ない限り、なかなか事実の重大さに気づかない。人間は、他人の痛みよりも自分の痛みの方を優先する。だから「報復」「復讐」が連鎖するのだ。

私は長く「人権問題」、特に「差別」について考え続けてきた。なぜ「差別」は繰り返され続けるのか。新たな差別が新たな様相で発現し続けるのかを考えつづけてきた。
かつて部落差別は古い因習を捨てられない人間が起こすものだから、古い人間が死に絶えれば自然になくなると本気で言っていた人間がいる。それも、その古い世代の人間が、わしらがこの世からいなくなれば…と。その言葉からもう何十年が過ぎたことだろう。彼らはもうこの世にはいない。しかし、部落差別は今も生き続けている。
面と向かって言う人間はほとんどいなくなった。なぜなら、その言動が「差別」であり「人権侵害」であると皆が認識しているからだ。そう学校で、社会で学んでいるからだ。だが、ネット上では姿を隠しながら囁かれ、未だに生き続けている。新しい人間が、新しい手法で、新しい姿で、旧態依然の内容を語り続けている。
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私の実体験に基づいて、「誹謗中傷」について考えてみたい。そして、少しでも気づいてほしい。ネット社会の「世情」について考えてほしい。

「煽動者」には大別して3つのタイプがあるように思う。1つが「愉快犯型」であり、2つが「自己顕示型」であり、3つが「ルサンチマン型」である。これら3つの型、一人の人間の内部(心理および心理的背景、生育歴や家庭環境、人間関係と生活環境など)で複雑に絡み合いながら形成されてきたと考えられる。つまり、必ずしもどれかの型に当てはまるのではなく、「ルサンチマン型」が「自己顕示型」と合体していたり、「自己顕示型」と「愉快犯型」が合体したりしていると多様なパターンがある。

「愉快犯型」や「自己顕示型」については想像に難しくないだろう。面白可笑しく騒ぎ立てることで、いわゆる「炎上」を起こさせて楽しむのが「愉快犯型」であり、「自己顕示型」は自分の存在をアピールしたい、目立ちたい、注目されたい、あるいは自分の「優秀さ」を誇示したい、賞賛されたい思いから投稿やコメントをするタイプである。両者とも他者(相手)のことなど全く考えていない。

これに対して最も面倒なのが「ルサンチマン型」である。
「ルサンチマン」(ressentiment)とは、『広辞苑』によると「ニーチェの用語。弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること。奴隷道徳の源泉であるとされる。一般に、怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積もっている状態」と説明されている。
つまり、過去あるいは現在において何らかのできごとによって他者に対する「怨念」や「憎悪」、「嫉妬」を抱き、その「復讐」として別の誰かを攻撃(誹謗中傷・罵詈雑言)するタイプである。軽いストレスからの一過性のタイプもあれば、異常な執念深さから粘着気質のタイプでもある。

自らを「弱者」(の立場におかれている)と勝手に規定し、他者から一方的な(理不尽な)攻撃を受けた「被害者」であると思い込み、それゆえに「復讐」(仕返し)しても許されると考える。決して、その要因に自分の言動や人格が影響しているとは思わない。すべて他者が「悪いのだ」と自己正当化に走り、内部に「怨念」「憎悪」「嫉妬」を増殖させていく。
ちがう他者とのトラブルが起こっても、その要因も結果も、それまでと同様に他者のせいにして自らの正当化と他者への憎しみを倍加させていく。そこでは見事なほどの「(自己擁護)の解釈」が行われる。

「ルサンチマン型」が「自己顕示型」と合体した場合、例えば他者からの「賞賛」「賛同」を欲しながらも、何らかの要因でそれが叶わなかったとき、すなわち他者や周囲から認められなかった場合など、異常な顕示欲(承認欲求)は「怨念」「憎悪」「嫉妬」に転化する。自らの言動に要因を見ることは決してなく、他者や周囲の中に要因と責任を求める。
他者は自分が大学を出てないからバカにするのだとか、自分が指示に忠実に従わなかったから仕事や役目、組織などから排除・排斥するのだとか…、自分勝手な学歴コンプレックスを他者からの学歴差別に転化しているとは決して思わない。自らの言動や捻くれた性格が周囲との摩擦を激化させたのだとは思わない。「相手にされない自分」を顧みることはせず、「自分を相手にしない周囲」が悪いのだと決めつける。
大学や大学院を出た人間より自らの方が「優秀」であることを証明するために難解な書物を読み、万巻の書物を収集し、誰彼なしに(一言居士のような)批判を繰り返す。その際には必ず出身大学名を出して貶す。大学を出ていない自分の方が優秀であると自分を納得させなければ気が済まないのだ。これは「仕事」や「役職」「容姿」などでも同じことが言えるだろう。

自らのコンプレックス(劣等感)や過去のできごとがトラウマのように心の奥底に沈殿し、気に障るようなことがあると、まるで「スイッチ」が入ったかのように、「復讐」が開始される。
執拗に、過激に攻撃が行われる。相手が受けるダメージこそが、唯一自らのトラウマを癒やしてくれることを知っているのだ。
さらにそれが「快感」になり、「愉快犯型」に合体していく。相手の苦悩する姿、相手が不快感を抱く様、それが自分を満足させていく。それゆえ、相手がダメージを受けなかったり、何より相手にされなかったり、無視されたりすることが最大の「屈辱」となるのだ。自己顕示欲が満たされず、復讐が果たされないからだ。だから、執念深く、手を替え品を替え、執拗に相手の厭がることを考え抜いて実行する。

ブログやSNSなどに、自らの「優秀性」をひたすらアピールし続ける。なぜなら、砂漠に砂をまくように「自己満足」には限りがないからだ。虚しい徒労であっても、それ以外に渇きを癒やす方法を思いつかないのだ。
スポーツでは他者に劣るとコンプレックスを抱いた者が、勉強で見返そうとすることも、その逆も良く聞く話だ。原動力としてプラスの作用もあれば、他者を見下す高慢な人格を形成するマイナスの作用もある。

「誹謗中傷・罵詈雑言」は巧妙に、狡猾になってきている。匿名性を隠れ蓑にできなくなってきた現在、大衆心理や世評を上手く利用したり(「反社」や「教委」「行政」の名を使ったり、「噂」や「情報」を操作したり)、高名な学者の著作や論文からの理論や論理を借用して武装(偽装)したりして、さも正論であるかのように、さも正義であるかのように装う。しかし、彼らの本性は「正義の仮面の裏で舌を出す」なのだ。
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「誹謗中傷・罵詈雑言」に対する効果的な対処法はあるのだろうか。被害に遭った者は誰しもが切実に願うだろう。だが、残念ながら、現時点ではない。確かに、ここ数年、ネット上の誹謗中傷による芸能人などの自殺によって社会問題として危機感が高まり、法整備および厳罰化も急がれてきた。しかし未だに不十分感は拭えない。

では、どうすればよいのか。どう対処すればよいのか。

まず直接的な対応はしないことである。前回の拙文でも述べたように、相手は「愉快犯型」であり「自己顕示型」「ルサンチマン型」である。どのタイプでも共通しているのは、相手の「反応」を待っているということである。「反応」することを楽しみに網を拡げているのだ。
真面目に「正論」などで注意喚起しても、うまく(姑息に)擦り抜けて、さらに挑発的な書き込みを繰り返すだけである。「正義論」など通用する相手ではない。

自己中心的な解釈で、最近の元アイドルのラーメン店に誹謗中傷を行った男性のように、「親切での忠告」「みんな(社会)のため」「噂や情報が悪い」と開き直るのが落ちだ。決して自らの非は認めないだろう。何より自分は悪くないと思い込んでいるか、悪意から(わかっていながら)の攻撃なのだから。

どれほどイヤな思いをしようと、悔しさに心を痛めようと、書かれ続けても、「無視」「無反応」に徹することしかない。反応すればするほど、向きになって反論すればするほど、悩めば悩むほど、困れば困るほど、彼らは面白がり、注目を集めることに快感を得て、更に過激な誹謗中傷・罵詈雑言を書き散らす。「遺恨」を晴らすことができたと溜飲を下げるだろう。真面な社会常識など通用しない人間だから、誹謗中傷・罵詈雑言を行っても平気なのだ。「諫言」など逆効果でしかない。

実に悔しいことだが、悪質性や被害(心身・実害)の大きさによるが、公的機関(警察・人権擁護局など)あるいは弁護士に相談して法的措置をとる意外にはないだろう。その際の壁が「個人情報保護」であり、「言論の自由」である。この壁を壊すためには、証拠の積み上げしかない。書かれたものを的確に「保存」していくしかない。
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ネット社会は仮想空間である。そこでは、人間は何者にでもなれる。何でもできる。虚実が判別できない世界だから、「嘘」をつくことができる。

あるTVドラマで主人公が次のようなセリフを呟く場面があった。

人間が嘘をつく場合、3種類の嘘がある。自分を守る場合、他人を欺く場合、他人を庇う場合だ。

誹謗中傷を繰り返す人間の「嘘」は、自己保身と自己顕示欲からであり、「他人を欺く」ために「嘘」をつく。他人を庇うために「嘘」をつくなどは決してしない。なぜなら、自己中心的であるからだ。

自己顕示欲の強い人間は、「批判」を待っている。「批判」されることは、自分が認められたことだからだ。誰からも「無視」され、相手にもされないことほどプライドが傷つけられることはない。

自己顕示欲の強い人間は、自己満足であっても、自画自賛を繰り返す。誰かに認めてもらいたいがために、虚偽や誇大妄想を書いても、その真偽の証明のできないネット世界を利用する。そこでは、誰にでも、どんな人物にもなることができる。「嘘」で塗り重ねた自己満足の世界を創造できる。

彼にとっての「他者」は、自分に好意的であるか、そうでないかの二極化である。そして、常に識別するために、敵を作り攻撃を繰り返す。

「批判検証」という名を使って「誹謗中傷・罵詈雑言」を正当化する。正当化の手法は、自らを「被害者」に仕立て上げること、「正義」「社会」のためであることを常にアピールする。
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「誹謗中傷・罵詈雑言」を意図的(悪意を持って)行う人間は、「愉快犯型」であり「ルサンチマン型」であり、「自己顕示型」であると分類した。この3類型を「再犯」という面から考えてみる。

「愉快犯型」にとって対象は誰でもよい。相手が誰であろうが構わない。彼らは「反応」だけが楽しみである。誹謗中傷の対象(相手)がどのような反応をするか、つまり不快・不愉快・嫌悪、あるいは困惑・苦悩といった反応をする、または怒り、憤り、正義感などで対抗しようとする人間を「待っている」「望んでいる」のである。そうした「反応」「対応」こそが「ねらい」なのだ。なぜなら「注目を集めたい」「目立ちたい」という迷惑系のYouTuberと同類である。彼らとのちがいは金銭目的かどうかくらいだ。相手の「反応」が「快感」なのである。だから「執拗に」繰り返す。

「ルサンチマン型」は、過去あるいは現在において他者から受けた対応や仕打ち(~されたこと)へを自らの内面で「憎悪」へと転化している。内面で鬱屈させ続けてきた「憎悪」のはけ口を誹謗中傷・罵詈雑言に求めているのである。彼らは自らを「被害者」と思い込んでいる。心の傷として自覚的もしくは無自覚的に持っており、その「琴線」(最も触れられたくない部分、コンプレックス)に触れられたとき、一気に爆発する。「敵視」した相手には徹底的に攻撃を仕掛け、溜飲の下げるまで(下がることはないだろうけど)、「執拗に」誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返す。

「自己顕示型」は優劣にこだわりを持つ。相手より自分が「優れている」ことが重要であり、それを吹聴することで自己満足する。だから、相手より自慢できること、優れていることを書くことで、相手を「攻撃」する。逆に、自分より劣っていること相手の中に探して、そのことを徹底的に「愚弄」「揶揄」する。彼らは決して他者を認めないし、認めることができないのだ。

彼らは集団では生きていけない。「孤立」し「孤独」である。だからこそ、他者から認められたい願望が強い。強いから他者を屈服させて「満足感」(充足感)を得ようとして、自己満足でしかないことを知りながら「自慢」に終始する。それは限りなく「虚しい」ことだ。
誰からも相手にされないことを自覚しているからこそ、その「虚しさ」を埋めるために、自己満足を得るために、他者を「攻撃」し、「愚弄」「揶揄」し続ける。
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事実、十数年も前の私への「誹謗中傷」の文章を、プロバイダーから「警告」「削除命令」を出される度に、新たなブログのプロバイダーと契約して、過去の「記事」を再掲する。自らが書いた「記事」に愛着を持つのはわかるが、その「記事」によって理不尽な不快感をもつ人間が多くいること、他者への侮辱罪・名誉毀損に値するから「警告」されたことを、むしろ孤高の勲章のように思っているように感じる。残念ながら、世の中にはそのような人間も存在しているのだ。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。