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「史料」再考(1) 「用留」

人見彰彦氏が「部落史のひとこま」と題して岡山部落問題研究所の研究誌『調査と研究』に、研究所に保存されている<史料>を紹介しながら、岡山藩の部落史に関する小論を連載していた。
部落史研究だけでなく地方史研究にとっても貴重な史料であり、実態の解明にも有効かつ示唆に富んだ論考である。しかしながら、史料の解釈に疑問もある。このまま埋もれてしまうのは惜しいので、人見彰彦氏の紹介する史料と論考を私の視点から再考していこうと思う。


備中国の穢多頭の系譜をもつ家に残されていた「用留」から、明治の初め、いわゆる「解放令」(太政官布告)の発布前後の頃の記述を紹介する。「用留」とは,業務日誌あるいは備忘録のようなもので,役務上の記録や見聞したものを書き留めたと考えられる。

明治二巳年、議案録之書三拾六巻これある内第二巻議案録弐之巻
一 会計官権判事加藤弘蔵調べ
一 非人、穢多の義、その縁由確説は分かりかねるが、人類であることはまちがいありません。これを人外の扱いをしていくと天理に背くことになるだけではなく、外国と交際する場合も国の恥となることはいうまでもありません。そこで、この御一新にあたり、非人、穢多之称を廃止して、一般庶民へ加えるのが上策と考えます。旧幕府も、この春から弾内記が支配していた者共の穢多之称を廃止しています。この御一新にあたり、何もしなければ、必ず大政の大欠点となるでしょう。
第六番ニ御改政、松本藩 内山総介
一 御国内六十余の内、穢多・非人の名号を廃止して、新たに革屋組、又は革屋職といいかえ、百姓や町人と同様にとりあつかい、縁組なども勝手次第にさし許し、その土地はすべて天朝御領とすれば、その国益は莫大なものとなり、数十万石に匹敵しましょう。この頃よく聞かれる風評のように、蝦夷地へ移すことは害が多く、賛同出来ません。

これらは公議所での議論で出された意見であるが、穢多・非人が従来(江戸時代)にどのように見られていたかがわかる。「縁由は分かりかねるが」特定の人々(賤民)を「非人、穢多之称」で呼び、「人外の扱い」をしており、「縁組など」は「勝手次第」にはできなかった。
また「百姓や町人と同様にとりあつかい」の言葉からも、「同様」ではなかったことがわかる。
「人外」「同様」などの表現から、穢多・非人などが百姓・町人あるいは武士(士族)から自分たちと「同じ」「人」ではない存在であると認識されていたのである。さらに「人類であることはまちがいない」の発言は、「人類ではない」と認識している人々も多くいたことの証左である。

<史料>を解釈する際、その時代や社会の「意識」「認識」「思考」を反映していると理解して読み解くことが重要である。現在の価値観や認識で、その時代の価値観や認識を判断すべきではない。例えば、「目明し」「捕亡役」などを「司法警察」などと安易に表現することで、現代の「警察官」をイメージする誤謬を生じてしまう。
「人外」など現代では考えられないが、当時は当り前のように思い、そのように見ていたのである。なぜなら<差別>の概念がまったく違っていたからであり、そもそも<(身分)差別>が社会の基本構造であったのだから。今でも「人でなし」「人間ではない」などの表現が使われるではないか。まして「人種」「民族」などの違いが極端な<差別>に転じたときは、「人外」という認識になることも多い。

問うべきは、その時代やその社会の価値観であり認識そのものである。「身分制社会」をどう判断するかである。<人権>という価値観・価値基準から、そして人類の将来に向けてどうあるべきかという視点で、その時代やその社会を判断すべきである。


次いで、「用留」には、明治政府が出した布告が記載されている。

従来斃牛馬これある節は、穢多へ相渡来候処、自今、牛馬共勿論、外獣類たり共、総て持主のもの勝手に所持いたすべき事
 辛末三月
右太政官より仰いだされ候間、其旨相心得、もらざる様あいたつすべきもの也

従来(江戸時代)は「斃(死)牛馬は穢多のもの」という慣例(しきたり)を取りやめ、牛馬の持主が勝手に処分することを許可した布告である。これは穢多の権利を剥奪するとともに、穢多であることを規定していた義務から解き放たれたことを意味する。身分に賦課していた「役(役目、役負担)」がなくなったのであるが、同時に独占していた皮革業の仕事と利益を失ったのである。
しかし、もう一つの「役」であった「目明(役人)」役はどうであったのか。
「用留」には、その次に「人相書」が書き込まれている。

肥前国浦上村字坂本
 切支丹宗門宅十倅 茂十
人相
年齢三十壱才、髪黒多キ方、中背少シ高キ方、顔丸、痘跡アリ、色黒キ方、鼻中低方、歯白揃、垂耳、言舌荒々敷
着類
赤浅キ立縞袷、裏浅キ、紺ニ白細キ筋入帯
所持
紺筒襦袢、紺しぼり手拭
右は福山藩御預りもの、四月十一日夜、囲逃げさり、行衞あいわからず、あつくたんさくいたし候、尚村々番人等へも申し含めるべき事

「肥前国浦上村」は、現在の「長崎県長崎市」であり、江戸中期から明治初期にかけて4度にわたりキリシタン弾圧を受けた村である。本史料は「浦上四番崩れ」で配流された人物の一人と考えられる。「浦上四番崩れ」の発端は1867年であり、配流が始まったのが翌1868年である。日本政府がキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放したのが1873年であることから、明治3年(1869年)から明治5年(1872年)の出来事、もしくは明治4年(1871年)の「解放令」(太政官布告)までの出来事であると考えられる。

「福山藩御預り」とあることから、<1868年7月9日(5月20日)、木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定し、以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された>の一人と考えられる。月日が4月11日とあることから1869年以降であろう。

捕縛されたキリシタンが逃走し、それを近隣諸国(藩)にまで探索の協力(手配書・人相書)を求めたことが史料からわかる。


「用留」には、次に「解放令」が記されている。

穢多非人等称致廃候条、自今身分職業平民可為同様事
但隠亡・茶筅等ト唱候ものも可為同様事
 未八月
今般、穢多非人等一同平民ニ被仰付候旨被仰出候は、誠ニ厚き御仁政之御事ニ付、元仲間之者共申合、向後身分ヲ謹ミ、諸人え対シ不遜之所業いたさず、職業ヲ相励ミ、御国恩ニ奉報候心得肝要之事ニ候
 辛未九月
右は、九月十五日、倉敷御庁え御召出、右御書付知事様より仰せ渡され候

正式には「明治4年8月28日太政官布告第449号」である。通常よく知られている「解放令」と異なるのは、各地の実態に応じて内容を改めているからだと思われる。また、辛未9月の文は倉敷庁で伝える際の説諭を書き留めたものと考えられる。事実、各県にはそれぞれの説諭文が残されている。

「向後身分ヲ謹ミ、諸人え対シ不遜之所業いたさず」から「解放令」以前の百姓・町人と穢多・非人など賤民との関係がわかる。両者が差別的な関係性でなければ「身分ヲ謹ミ」の文言は不要のはずである。さらには、なぜ「諸人」(百姓や町人:平民)に対して「不遜之所業いたさず」と、わざわざ注意する必要があるのか。
それは「平民」になるからである。同じ(身分の)扱いになるからである。江戸時代では「身分」が異なれば「扱い」も有り様も異なって当然であった。そこには<身分差別>があった。しかし、身分が同じになれば同じ扱いとなる。それは百姓や町人、つまり「平民」にとっては、未だ江戸時代の価値観や認識である人間にとっては許しがたい(納得できない)ことであった。
当然、不平や不満、問題も発生することを予見しての注意であった。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。