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「渋染一揆」再考(5):「倹約令」の目的

天保13年(1842)の『御触書写』(清水村)より,穢多身分に出された触書を転載する。

穢多・隠亡之類,居小屋・衣類等平人ニ紛不申様別て下り可申,素商売等之義皮類は格別,其外之義は堅不相成候事
「但居小屋其外瓦付并門かまい等致候者有之候ハヽ早々取払せ候事 着類棒嶋可為事」
(穢多や隠亡たちの居小屋や衣類などは,平人と紛れないように,特に引き下がること。言うまでもなく,商売などについては皮類は特別とするが,その外の物については堅く禁止する。
「ただし,居小屋などに瓦を葺いたり,門構などをしている者があれば早急に取り払わせること。着物などは,棒縞とすること」)
「衣類淺黄空色無地無紋,羽織・脇差差留 但捕もの之節ハ脇差指免候事」(衣類は,浅黄色・空色・無地・無紋とすること。羽織・脇差は禁止する。ただし,捕物のときは,脇差は許可する。)

まず,この史料が天保13年(1842)であることから,ペリー来航(1854)に端を発する対外国防備と治安維持を目的とした「御触書」(穢多の「制服」説)ではないことは明確である。たとえ,1837年の米船(モリソン号)浦賀来航以降,諸外国が日本近海に出現していたとか,阿片戦争の余波を警戒したとかを背景とする理由を述べようとも飛躍した論考であることは疑いようがない。むしろ,幕府による「天保の改革」にならっての(諸藩の)藩政改革であったと考えるべきである。

『禁服訟歎難訟記』の冒頭部分には,ペリー来航に関する記述があるが,国防に協力して褒美として藩主慶政が少将に任ぜられ,五家老が順番で房州へ出勤しており,そのため国内は平穏であったと書かれているだけである。

このことと合わせて,安政2年(1855)の触書は天保13年(1842)の触書を基底としており,天保13年の触書に「無紋渋染藍染」ないしは「衣類淺黄空色無地無紋」があるということから,衣類の規定が対外国勢力への示威・牽制を目的(「制服」着用)としたものでないことは明らかである。

続けて『禁服訟歎難訟記』の冒頭部分を転載してみる。

…… 間には非礼我察の者成ハ,分限不応衣類衣服を餝り,古来の御掟等を背,散ざんに勝手而巳に諸人増長ニ及。御上様にも,五ヶ年七ヶ年ト間を置,御倹約御触書被成けるといえ共,平百姓を始,皮多百姓共慎方,至て宜しからず。

私は,この部分が「渋染一揆」の核心と考えている。つまり,幕藩体制の要である身分制を崩す実態に対する危機感である。百姓や穢多身分の贅沢は,一方で「質素・倹約」への違反であり,他方では「身分制・身分相応」への違反であったと考える。それゆえ,「倹約令」の中に身分制を立て直すための「身分引き締め」の条項が加えられたのだと考える。それは「穢多・隠亡之類,居小屋・衣類等平人ニ紛不申様別て下り可申」に示されている。

穢多身分が「捕り物」に動員されていたのは,それが「役目」であるからで,衣類の統制とは一切関係ない。まして,外国人に対する示威・牽制として穢多身分の衣類を統一(制服)するのであれば,従来のように「羽織・脇差」を認めれば,平人とは違う風体となるわけだから,その方が十分に効果があるだろう。

「羽織・脇差」については,彼らが「番役」「目明」「捕方役」の御用に従事していたから許可されたのであって,武士の末端に位置づけられていたからではない。あくまでも身分は「穢多身分」であって武士身分ではない。役目上の組織図と身分を混同してはいけない。治安維持は役務として命じられていたに過ぎない。また,「御法」に従っていたのは穢多だけでないし,「御法」に従うことが偉いのでもない。現在でも法律に従うのは当然のことで,それを遵守したからといって偉いわけでもない。また周囲が偉いと思うわけでもない。「目明し」や「番役」と同じく「牢番」にしても,役務に忠勤したことや囚人に親切であったから偉いのでもない。

同様に,穢多身分の人々を差別した者もいただろうし,何ら差別もせず普通に接した者もいただろう。差別の具体的な実態ではなく,穢多身分と平人身分とが分け隔てられていた意味,賤視されていた事実,そこから身分差別・賤民・賤視観について考えてみたいと思っている。

何より,衣類の規定の目的は「平人ニ紛不申様別て下り可申」であって,平人との対比である。それに対して,穢多身分は何を求めたか。自らを穢多と書き記さず「皮多百姓」と書いた意味,「我等は皮多百姓である」こそが自意識であろう。武士身分の末席に位置する「穢多」としての自意識など彼らにはない。「下賤成ル穢多共候得共」と武士に対して認める一方で,彼らは自らを穢多ではなく「皮多百姓」と呼ぶ自意識をもっている。穢多であることを誇っていれば,自らを「穢多」と呼ぶだろう。そう呼べない,呼びたくない思いがあったからではないだろうか。また,「皮多百姓」と「百姓」にこだわったのも,彼らの目指した「平人化」のゆえである。彼らは,武士に対して,周囲に対して,穢多ではなく「同じ百姓」としての扱いを願ったのだと考えている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。