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伊勢大神楽差別事件

上道郡沖新田の村々では、毎年秋になると伊勢大神楽の一行が来て、五穀豊穣を祈って神楽を勤めることになっていた。寛政6(1795)年8月、例年のように訪れ、沖新田外七番の百姓方で神楽をまわしていたとき、隣村や新田七番の被差別部落の人々が大勢でやってきた。

彼らは、楽頭の森本忠太夫に、自分たちの村でも神楽を勤めてくれるように頼んだ。当時は凶作が続いていたこともあり、神楽を奉納して、伊勢神宮の加護を願ったものと推察できる。しかし、楽頭は、部落(穢多村)で神楽を勤めた先例はないと拒絶する。真剣な願いを差別的に拒否した楽頭に激昂した彼らは、神楽の道具を打ち壊し、さらに翌日、神楽一行の宿におしかけて談判におよび、あくまでも部落を差別し神楽を拒否するのなら、以後沖新田において神楽ができぬようにすると、厳しく抗議している。
楽頭は、すぐに外七番の名主安五郎宅に駆け込み、名主の権威で部落(穢多村は本村の枝村である)を抑えてもらおうと訴えた。ところが、安五郎は部落の説得に全然動いていない。困り果てた森本忠太夫は岡山藩に訴え出る。その結果、神楽が来ることが禁止されてしまい、それ以後慶応3年まで来ていない。


この史実から、被差別部落の社会的地位の向上と差別に対する抵抗が日常において行われていたことがわかる。さらには、周囲を百姓が取り巻いているにもかかわらず、百姓と同等の扱いを要求し、拒否された場合には実力行使まで行っていることから、相当の力を持っていたことがわかる。このことは、安五郎の対応からも理解できる。すなわち、差別に対する抵抗意識と行動力を兼ね備えるまでに、力量を育て高めていったのである。

従来、このような闘いは、被差別部落の差別(差別政策や差別法令、差別的対応)への抵抗と現象面からのみ解釈されてきた。しかし、これらの抵抗や闘いの背景には、被差別部落の<解放への歩み>があり、そのわずかな一歩の蓄積が大きな一歩となり、幕府や藩への脅威となったとき、身分制度や身分秩序の維持を目的に差別が強化されていったのである。差別されたから抵抗したのではなく、差別されたくないという願いや行動を抵抗と見なしたから差別が強化されていったのである。

すなわち、被差別部落の人々による日常生活における平人化・脱賤化の動き、解放への動きがあったからこそ、差別が強化されたと理解すべきではないだろうか。事実、近世中期(18世紀)の差別政策が「慎しみ」「礼儀」といった内面的規制が重視されたのに対して、近世後期(19世紀)では「服装」「持ち物」「履物」など外面的規制に重点が置かれるように変わっている。このことは、「平人に紛れ不申様」という御触書の表現からわかるように、服装など外観から一目で賤民身分であると判断するために差別したということは、差別の内容で苦しめることが目的ではなく、賤民身分に対する百姓や町人の意識を考えた政策である。つまり、身分による差異を強調することで、封建的社会秩序の崩れを防ごうとしたのであり、差異の強調が結果的に、百姓や町人の優越感を生んだのであって、従来の説明にあるように、当初から分裂支配を目的としたものではない。
なぜなら、先に賤民身分による脱賤化・平人化の動きがあり、そのことが身分秩序を崩すことになったからである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。