「知らないこと」のこわさ
教科書会社から送られてくる情報誌の中に「教科書活用」というページがあり、教科書記述に関する様々な疑問に答えてくれている。
「踏絵」を「絵踏」に表記を変えた理由(踏ませる行為と踏ませるものと区別した)や「天領」を「幕領」とした理由(「天領」は明治以降の俗称)など,「知らなかった」ことを学ぶことが多い。しかし、同様な表記の改訂だが,単に「知らなかった」ではすまされないものもある。それは,「問丸」を「問」とした理由である。
史料の多くでは,「問」と表現されており,職名としては「問」という名称であったと考えられる点や,「問丸」という呼称が「馬借丸」などと同様に,貴族が身分の低いものを呼ぶ「蔑称」であったと考えられることから,「問」といたしました。
(東京書籍『教室の窓』創刊号)
このことが歴史的事実として正しいのであれば,私たち教師は長く「蔑称」を教えてきたことになる。試験問題にも出題してきた。「当時の貴族が使っていた蔑称だから…今は使われない歴史用語だから…」は言い訳でしかない。「知らないこと」の怖さである。現在の教科書にも記述されている。
では,使わなければいいのだろうか。このことは,賤称語・差別語についての議論と同じである。その語句・言葉・表記の使用に問題があるという議論であれば,使用しなければいいだけだ。「禁止用語」にすればいい。ただ,その場合,公的な報道など以外では完全に「禁止」することはできないだろうし,逆に「差別語」として使われる可能性も残る。
問題とすべきは,その語句・表記・呼称を「蔑称」とした人間の意識である。「問丸」を「蔑称」と認識した当時の(その時代の)人々や社会の意識であり,差別する意図と目的である。こうした歴史的背景こそが議論されるべきである。「差別の理由」と「差別の目的」は<差別する側>にある。今までの歴史(特に被差別民の歴史)は,この視点が欠落していた。<差別される側>の説明に終始していた。
先の「問丸」に関しても,貴族はなぜ彼らを「蔑称」で呼んだのか。「蔑称」で呼ぶ人々がおり,「蔑称」で呼ばれた人々が存在した社会をどのように考えるか。その社会において「蔑称」はいかなる意味をもっていたか。そのような差別社会にあって彼らはいかに生きたか。「蔑称」される「理由」は何であったか。職業に対する貴賤観からだけだったのか。貴賤観の背景は何であったか。考えるべき視点は多い。
またこれらを考えることで,現代の差別問題や人権問題の解消に向けて生かすことができる「考え方・見方・生き方」も多い。「身分制社会が差別容認の社会であった」ことを「知識」で理解するだけではいけない。
身分社会において賤民層が身に受けてきた過酷な差別を抜きにして,部落問題の本質を明らかにすることはできない。被差別民の生活は,未来に何の希望もない惨めなものだったのか。否である。そこには,この世を必死に生きていくための創意と工夫があり,辛酸の中での苦闘と創造があった。どの部落にも,伝統的な生業と民俗があり,熱心な阿弥陀信仰があった。日本の歴史の中で,被差別民の果たしてきた生産的・創造的な役割について正しく理解されること,そして,未来を担う部落の子どもたちが,自分たちの祖先が被差別民であったことを胸を張って誇りをもって言える時代がくること,その時こそ,真の部落解放の力強い歩みが始まったと言えるであろう。
(沖浦和光氏の講演より)
歴史の教科書記述が「部落史の見直し」などを背景に大きく書き換えられて数年が過ぎ,以前のような部落史に関する現場の混乱も少なくなったように見える。しかし,果たして「新しい部落史像」が現場で定着したかは大きな疑問である。従前どおりに,教科書の記述が「知識」として伝達されていくだけでは「部落解放の力強い歩み」は遙かに遠い。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。