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「誹謗中傷」の背景(7) … 「思い込み」と「臆測」

投稿している「記事」は数年前に書いたもので、拙ブログに掲載している。今回の「パリオリンピック」に対するSNS上の「誹謗中傷・罵詈雑言」がニュースなどで話題となっていることを受けて問題提起のつもりで転載することにした。

昔と何ら変わっていない、改善されていない実情に憤りを抑えられないが、一方で「やはり…」という思いも強い。「言論の自由」「表現の自由」を隠れ蓑にして、他者の人権など無視して好き放題に書く。私は根本的には<人間心理>の問題である以上、犯罪がなくならないのと同様に、「誹謗中傷・罵詈雑言」の類いはなくなることはないと思っている。それでも、少しでも<抑制>ができる人間が増えることを願っている。


先日(8月24日付)の読売新聞「人生案内」に,ネット依存(国際情勢など,ネット上の極論を鵜呑みにする)夫の相談に対する識者のコメントに,次の一文があった。

…極論を信じている人を論理的に説得するのはたいへん難しい。
極端な思想の裏には,自分が社会の中でなかなか認めてもらえないという感覚があります。今はネット上で仲間を作りやすく,同じ意見を持たない人を「間違っている」と主張することで自分のプライドを保つ人が多いです。

ここ数回,「誹謗中傷」に関する私見を書いているが,誹謗中傷や罵詈雑言などはずっと昔(古来)よりあったことで,今後もあり続けるだろう。決して無くなることはない。現在と何がちがうのか。それは「ネット社会」が出現したことである。
「ネット社会」とは,<ネット環境を有する>誰もが<匿名で>情報や意見を<作為的に>世界中に<公開>できることである。しかも,誰の<検閲>も不要で,ダイレクトに,不特定多数の人々に向けて,そのまま発信できることである。

少数の友人・知人の中で言い合うような「悪口」「個人攻撃」「誹謗中傷」が,一昔前の井戸端会議で囁かれていた,噂に尾ひれを付けた話が,まったくの一個人の判断(思い込み・臆測)によって,まるで「真実(事実)」であるかのように発信でき,ネット上に拡散できる。意図的な「捏造」も「虚偽」も,表現によってどのようにでも書くことができる。なぜなら,個人的なことである以上,ほとんどの場合「真実(事実)」を知ること(確かめること)ができにくいからだ。それをわかっているから平気で「虚偽」を狡猾に書くのだ。


私が実際に受けた「誹謗中傷」の実例を紹介する。

Bという人物がいる。彼はネット上で知ったAという教師を攻撃したいと考えた。遠距離であり一面識もない(直接会ったこともない)。その手段として,教師を批判した本を見つける。その本の中には著者が見聞きした,ひどい教師の実態が暴露的に書かれている。(実際に購入して読んでみると)確かに唖然とする教師の姿も複数の具体例が書かれているし,それに対する正当な批判もしている。そこで,Bはその本を引用しながら尾ひれを付けて「教師」を批判する。そして,Aをそのような「教師」であると断罪する。この本に書かれている教師と同じように「思われる」という書き方で,さもAがその本に書かれている「問題のある教師」あるいは「同じ問題性を持つ教師」であるかのようにBは書く。実に狡猾に巧妙に文章や表現を操り,読む人間に「本の中の問題教師」と「A」が同一視されるように(それをねらって)書く。

しかし,一面識もない,会ったこともない,ましてAの教師としての日常や授業,生徒との関わり,周囲にどのように認識されているかなど直接に知ることはできない。だからA教師を批判する「具体的な問題」については一切書かれていない。書けるはずもないのだ。ひたすら書いている具体的な問題事例は,その本に書かれている教師の問題性である。その具体的事例をA教師のことのように,A教師もそうであるはずだと思い込んで書いている。

Bが勝手に「同一視」しているだけのこと,Bの「思い込み」であり「臆測」でしかない。「事実」はBにさえ確かめようがないのである。にもかかわらず,BはAをそのような教師であると「思い込み」,人々のために「糾さなければ」ならないという「正義感」から書くのだ。そして、書きながら、いつのまにか、その本で批判している問題教師の実例がA教師の実例にすり替えられて書かれていく。この狡猾で巧妙な手法に読む人間は欺され洗脳され、思い込んでいく。

本の中のことが「現実」であるという,本しか知らない人間が陥りやすい「臆測」の世界である。本に書かれていることを脳内で反芻する中で,仮想世界の「臆測」が現実であると「思い込む」ようになった結果である。被害者意識も同様に脳内で反芻の中で増殖されていったのだろう。

かつて私も,その同一人物(B)から彼のパソコンやサーバーが故障する度に,私から「ネット攻撃」を受けたと書かれ続けた。私の知人にパソコンやプログラムに精通した人間がいて、その人物が私に依頼されて「攻撃」(ウイルスなど)したとか、ハッカーのように破壊工作をしたとか、妄想も過激化されて…自らを「被害者」にして、私を「加害者」にする。さらには、それを自らの「情報処理技術」で防ぐことができたと、自らの「優秀さ」をアピールする。まさに「自作自演」である。
ネットの怖さは、このように「虚偽」や「自作自演」を「事実」のように作為することが可能であるということだ。しかも、その「虚偽」を判別しにくい。

ただ、多くの場合、「虚偽」の情報には「具体性」がない。「具体的な内容」が書かれることは少ない。なぜなら「架空」であり「虚偽」「妄想」だからだ。いつ、どこで、だれから、どのような…そうした信憑性のある具体的な内容が書かれていない場合は、「虚偽」である。
彼の文章には、「左翼思想」「小中学校教師」「学者・研究者・教育者」などと抽象的な名称しか出てこない。具体的な「内容」はほとんどない。それが「虚偽」を見破る方法の一つである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。