見出し画像

何を残すか

ハンセン病療養所に入所されている方々は,芸術や文学の世界に素晴らしい作品を多く生み出している。その高い芸術性と感性の豊かさ,独特の表現力は,ハンセン病文学(芸術)と呼ぶにふさわしい独自の世界がある。
また,長い歳月を闘ってきた自治会活動,裁判闘争などを通じて残された多くの記録文章や活動そのものをみても,その学問的・政治的能力の高さに驚歎する。

世間には,衣食住に不自由なく,生活に困らず,自由な時間があるから好きなことが好きなだけできるんだと揶揄する人間もいる。ハンセン病患者が歩んだ辛酸の道を知らないから言えるのだ。
国賠訴訟の提訴準備中に入所者から発せられた言葉がある。

請求金額については,同じく人生を奪われたと訴えた薬害エイズ訴訟の請求額1億円が基準となった。ただ,誰にでもわかりやすかった薬害エイズの健康被害に比べて,本件の隔離被害は目に見えにくい。国民世論の共感は得られるのか。
弁護団が悩んでいるそのとき,堅山は口を開いた。
「弁護士さんたち。1億円で私の人生と代わっていただけますか」

この言葉は重い。
…………………………………………………………………………………………………………
神谷美恵子「島の精神医療について」(『人間をみつめて』)に,次の一文がある。

長島というのはかなり広い島で,同じ島の光明園の人も入れればそこに二千二百余人もの患者さんがちらばって暮している。たまに行く精神科医とは顔をあわせたこともない人が多いので,私は決して彼らの生活や意識をよく知っているわけではない。いろいろな意味で今なお,時どきびっくりするような人に会うことがある。たとえば昨年のことであったと思う。ある日,まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。
「先生,ちょっとぼくのやっている翻訳をみてくれませんか」
みると,少し不自由な手で,分厚いフランス語の本を胸に圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。びっしりときれいな細かい字で記した大学ノートの訳文とつき合せてみると,ほとんどまちがいがない。この人は少年の頃,発病して入園しているはずだ。
「どうやってフランス語を勉強したの?」
「ラジオで何年も独学して,答案も放送局へ送って添削をうけたりしました。テレビも利用します」
あっさりと彼はいう。しかし集団生活の中で,これがどれだけの意志力を必要とすることか。大学生たちがフランス語をやっても,たいていものにならないことを思うと,私は彼の肩を叩いて激励したくなった。
「べつに出版のあてがあるわけではありません。ただ,いったい,自分のやっていることがまちがいないか,それが知りたかっただけです」
彼のにこにこした顔をみて思った。要するに金や報酬や名誉の問題ではないのだ。自分のいのちを注ぎ出して,何かをつくりあげること。自分より永続するものと自分とを交換すること。あのサン・テグジュペリの遺著『城塞』にある美しい「交換(エシヤンジュ)」の思想を,この人はおそらく自分では知らず知らずのうちに,実行しているのだ。その後も彼はあいかわらずせっせとこの仕事をつづけ,私には答えられないようなむつかしい問いをためて,時どき聞きにくる。

長島愛生園に入所されていた中原誠さんのことである。

北条民雄など一部を除いて,入所者のほとんどが最初から作家や芸術家になりたかったわけではない。中原さんのように,ハンセン病療養所で生きなければならない自らの人生を何か形あるもので残そうと思ったのだろう。あるいは,自らの語り得ぬ苦悩と悲哀,生きなければならない「自分というもの」を見つけるためであったように思う。

「何を残すか」―それは,人として誰もが思うことだ。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。