見出し画像

「らい予防法」の背景

○第1回国際らい会議

1872(明治5)年,ロシア皇太子の来日を前に,東京浅草において物乞いをしていたハンセン病患者が,本郷加賀屋敷の長屋に強制収容された。これは,近代日本が欧米諸国に列するために,首都東京でハンセン病患者が物乞いする状態を見せたくないという政府の方針に沿ったものであった。

近代以前,為政者は患者が神社仏閣の門前で物乞いをしていても何ら関心を示さなかった。ハンセン病は業病であると考えられており,一般国民からの嫌悪感はあっても,恐怖心は少なかった。

1897(明治30)年,ドイツのベルリンで第1回国際らい会議が開かれた。ハンセンによるらい菌の発見を受け,世界のハンセン病の現状を把握し,その対策を確立することが,会議の目的であった。

この会議では,ノルウェー方式として次の政策が報告された。

一般法の枠組みで予防活動を行い,病状の悪化している者を居住地の病院に隔離し治療にあたらせていること。その場合も,放浪している患者に対する強制隔離と,他の者に対する任意隔離の二本立てを採用していること。病院等での看護は家族が行い,患者の病状が改善したら家に帰していること。

これを踏まえて,次のことが決議された。

ハンセン病はらい菌による伝染病であること。伝染病の程度は顕著ではなく,各型によって異なっていること。隔離はハンセン病が地方疾患的,あるいは流行病的に存在する地方では望ましいこと。隔離については,絶対隔離方式のハワイ方式ではなく,相対的隔離方式のノルウェー方式が有効であること。

この国際らい会議の決議を受けて,医学者を中心に,ノルウェー方式による隔離政策の有効性が強調されるようになっ

○「癩予防ニ関スル件」(法律第十一号)1907年(明治40年)

1905(明治38)年に日露戦争が終結すると,光田健輔,ハンナ・リデル,一部の代議士らは,渋沢栄一,大隈重信の支援を得て,ハンセン病予防の方策確立とハンセン病療養所に対する経済的援助を求めて,世論を喚起するための宣伝活動を行った。
この集会において,渋沢は「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが,実は恐るべき伝染病であって,これをこのままに放任すれば,この悪疾の勢いが盛んになって,国民に及ぼす害毒は計り知れないものがある」と発言した。
光田健輔も,ハンセン病が恐るべき伝染病であること,日本は世界第一の「らい国」であることなどを述べて,渋沢の発言を医学面から裏付けようとした。

国際らい会議で決議された「相対的隔離」が「絶対隔離」にすり替えられたのである。決議では伝染性の程度が顕著ではなく各型によって異なっているとされたにもかかわらず,ハンセン病は恐るべき伝染病であるとされた。

政府は,どうして渋沢・光田らの国際的な見解に反する独自の見解を採用したのか。

内務省内に設置された中央衛生会においてハンセン病予防法案が検討され,そして「癩予防ニ関スル件」が審議された衆議院本会議において,内務次官吉原原三郎はこの点を次のように説明している。

ハンセン病は伝染病であるが,その経過ははなはだ緩慢である。したがって,ハンセン病患者を取り締まり,隔離するのは医療・治療的観点からではない。日露戦争に勝利し,日本は一等国になったので,外見上よほど厭うべきハンセン病患者が神社等で浮浪していたり,路上で物乞いをしたりすることは国の恥であり,これらの取り締まりが必要である。

同じく,衛生局長窪田静太郎も貴族院の癩予防ニ関スル法律案特別委員会で「本案ニ於キマシテハ主トシテ浮浪徘徊シテ居ル者デ病毒ヲ散漫シ,風俗上ニモ甚ダ宜シカラヌト云フモノヲ救護イタシテ此目的ヲ達スルト云フコトヲ第一ニ致シテ居リマス」と,隔離に対する風俗取締上の理由を述べている。

この明治政府の考えの背景には,日英通商航海条約が発効し,欧米人の内地雑居が開始されていたことが深く関係している。すなわち,内地雑居により,日本国内を自由に居住し,旅行できるようになった。これにより,神社仏閣で物乞いをする浮浪らいの姿を欧米人に見られることは「国家の屈辱」と考えられるようになったのである。

日清戦争(1894~95年;明治27~28年)・日露戦争(1904~05年;明治37~38年)の勝利に意気上がる日本において,明治政府は欧米と肩を並べる文明国・近代国家と認められることが条約改正の成功のためにも至上目的であった。

当時の欧米では「らい」は「過去の病気」になっていた。先の目的を達成するため文明国へと国家体制を整えようとする明治政府にとって,欧米諸国に比べ神社や寺の門前で物乞いをするハンセン病患者の姿は「国辱」と映るようになった。「浮浪らい」の存在は,欧米諸国への体面上の大きな問題となったのである。



部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。