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百姓一揆と打ちこわし

貧農史観によって描かれた江戸時代の百姓は,重い年貢に苦しみながら朝早くから夜遅くまで働き,米を食べることもできず,稗や粟など雑穀で飢えをしのいだ極貧生活がイメージされるだろう。一昔前の時代劇に登場する百姓は,「カムイ伝」に描かれた貧しい百姓と似たような描写が普通であった。そして,教科書にも,家康の「百姓は生かさぬように,殺さぬように」に言葉のもとで,過酷な労働と貧しい生活,権力者・支配者である領主・武士に搾取される身分として百姓が書かれていた。資料集には,継ぎ布をあてた服を着た百姓がイラストで描かれていた。(これは今もそうだが)

しかし,近年の歴史研究によって,江戸時代は大幅に見直され,多面的な考察による新しい歴史像が描かれるようになった。「継ぎ布」を貧しくて服を新調できないと解釈するか,農作業に適するよう補強のために布をあてたと解釈するかによって,先ほどの資料集に描かれた百姓のイメージ大きく異なるだろう。
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「本途物成」といわれる本年貢は,村全体の石高に対して課税され,各戸に分担を割り当てて徴収し,領主である大名や旗本などに納める「村請制」であった。この年貢率は,通常「五公五民」とか「四公六民」のように,生産物の40~50%であった。しかし,実際はもっと少なかったともいわれている。(幕府や藩が財政逼迫に苦しむ要因の一つでもあった)

17世紀後半,元禄期以降,ほとんど検地を行っておらず,年貢算定の基準となる年貢高もそのままになっている。しかし,元禄期以降,日本の農業は集約型農法を取り入れ,生産力は飛躍的に向上する。また,商品作物や手工業製品の生産も盛んになり,農民の実質的な収入は増えていった。このため,百姓の実質的な収入のうち,税としての年貢は十数%にしかならないのである。

百姓は,全人口の80%以上を占め,50~100戸からなる村に住み,室町時代からの惣の伝統を受けついで山野・用水を共同で管理し,田植えなどの農作業を助け合いました。村には,土地をもつ本百姓と,土地をもたない水呑百姓との区別があり,本百姓のなかから庄屋(名主)・組頭・百姓代などの村役人を出し,寄合によって村を運営しました。
(『中学社会 歴史的分野』大阪書籍)

中学校の教科書では,本百姓と水呑百姓を「土地」所有の有無で区別しているとしか書いておらず,くわしい相違についての説明はない。高校の教科書では,「水呑百姓」について「村内には田・畑を持たず,地主のもとで小作を営んだり,日用(日雇)仕事に従事する水呑(無高)」(『詳説日本史B』山川出版)と記述されている。

未だ従前の「貧農史観」による,貧しく惨めな百姓観から書かれている。自分の田畑がないので地主から借りて耕作し高い小作料を支払っているため,日雇いにも行かなければ生活できないほど貧しい,というイメージを想像してしまう。

これも一面的な解釈,固定観念からの思い込みである。「田畑を持たない」は,農業が「生業」であることを前提としての理解である。農業する必要がない場合,農業意外に「生業」を持っている場合が欠落している。つまり,百姓=農民という「士農工商」を身分制度とした歴史認識が生み出した誤謬の延長上に,このような歴史錯誤が生じたのである。

網野善彦氏が調査した能登の時国家は,農業だけではなく廻船業や金融業,製塩業,鉱山業,山林の経営など多角的な事業をおこなっていた。時国家も親類も裕福な商人であるが,身分上は「水呑」であった。つまり,田畑が持てないのではなく,持つ必要のない豪商であった。さらに,時国家の「下人」と表記された友之助が,北前船の大船頭であり,千両という大金を動かすことができる立場にあった。

農村に居住しながら,農業以外の生業持ち,田畑を所有しない「百姓」身分の人々(幕府領では「水呑」であるが,藩によって身分呼称は異なっている)も多くいたのである。ただし,地主から田畑を借りて耕作する貧農の小作人が多くいたことも事実である。

18世紀後半から急速に農村に貨幣経済が浸透してきた結果,農民は茶や漆,桑などの商品作物を栽培して現金収入を得るようになる。こうして得た貨幣を貯めて土地を買い,やがて地主となり豪農となっていく者もあらわれてきた。しかし,農民がすべて勤勉であったわけでない。これは何も農民に限ったことではない。

農村に流れ込む貨幣を目的に,各地の都市から行商人が入ってくるようになる。芸人も興業をおこなうようになる。農村に商品経済が入り,娯楽も増えていくことで,博打や犯罪も増えていった。こうした状況の中,豪農になる者がいる一方で,堕落した生活で身を持ち崩した農民や,度重なる飢饉などで農産物が減少し,年貢も支払えず生活も貧窮化し,ついには高利貸しに借金を重ねて土地を手放して小作人や浮浪者となる農民も多くうまれた。つまり,貨幣経済の浸透が農村における階層分化を助長・拡大させたのである。
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百姓一揆の際に,農民たち参加者が手にしていた「得者」(道具)は,鎌・棒・竹槍・斧・鉞などであるが,その中でも鎌の所持が圧倒的に多かった。これらの得者を所持する目的について,従来は家屋の打ち壊しの際の道具や領主や村役人との戦闘に対しての自衛手段と考えられてきた。

しかし近年の研究によると,打ち壊しにも殺生にも適さない鎌の所持から,百姓という自らを示すシンボルとして所持されていたと考えられている。百姓一揆を象徴する出立ちである「蓑笠」も同様のことが指摘されている。会津藩の一揆史料では,蓑笠を「百姓相応之風俗」と表現している。大和国の柳生領一揆では,「百姓之事故蓑笠ニて願出」と,百姓だから蓑笠で出願するのだと書き残されている。竹槍も鎌と同様に,殺生が目的ではない。しかし,明治維新後の一揆では竹槍による殺害が相次いでいる。岡山の「解放令反対一揆」(明六一揆)でも竹槍による殺傷はおこっている。
(このことに関して藤野裕子さんは『民衆暴力』において、18世紀末から19世紀にかけて百姓一揆の作法の逸脱が始まり再暴力化したと考察している)

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百姓一揆に関する教科書記述には,必ず「傘連判状」が紹介される。一揆の首謀者を隠すためと説明されてきた。

此文言を丸き残の真中へ丸く書,何れが始終と知れさる様ニ認メ候由,是を車廻状とか申候

この一文は,貞享三年(1686)に信濃国松本藩で起きた加助騒動のときの「訴訟之事控」である。「からかさ」ではなく,本来の名称は「くるま連判」である。また,「何れが始終と知れさる様」も,首謀者を隠すことではなく,連判署名者の上下関係が存在しないことを表現するためであったと考えられている。車廻状には,宛名である大惣代の名前が書かれていることも多い。つまり,大惣代への忠誠を誓う意味があったと考えられている。

現行教科書や資料集においても2通りの「解説」がある。一方の教科書では従来通りの(首謀者への厳しい拷問と処罰を理由に)首謀者をわからにようにするためと説明してあり、他方では「一揆」の意味(揆を一にする:方法を一つにする)から団結・結束の象徴とするためと説明してある。
はたしてどちらが正しい解釈なのだろうか。困るのは「傘連判状」の意味を問う問題がワークのみならず模擬試験や入試にまで登場することだ。
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打ちこわしを行った貧しい百姓や都市の貧民たちは,米屋や豪商の家屋を無闇矢鱈に破壊したのではない。彼らは,規律に基づいた打ちこわしのルールに則って,破壊行為を行っている。

天明三年(1783)の大飢饉は,数年前より東北地方での冷夏による凶作に加え,浅間山の噴火によって煙と灰におおわれたため日照時間が少なく気温も低下して農産物が生育できず,大凶作となったことに起因する。

このため米価は高騰し続け,買い占めをする米商人により状況はさらに悪化した。天明七年五月,深川六間堀町に住む提灯張り職人らが米商店を襲った。同じ頃,江戸の他の地域でも貧民層を中心に打ちこわしが起こり,江戸全域に拡がっていった。

打ちこわしに関する諸記録から,そのルールを拾い出してみる。

まず,火付けの厳禁である。自分たちを苦しめている米商人や富裕な商人への制裁が目的であるため,関係ない隣家まで巻き込む危険性のある放火は規制したのである。
次に,盗みなどの厳禁である。飢餓状態にある打ちこわし参加者にとって,撒き散らした米は欲しかったはずであるし,現金も欲しかっただろう。しかし,彼らは盗みを働く者への制裁を決めて厳守している。
ただの破壊行為ではなく,自分たちを苦しめている者への社会的制裁が目的であることが参加者に徹底されていたのであり,無秩序な暴徒でないことが民衆の共感を得ることを知っていたのである。

打ちこわしの対象も,地域によって異なっている。米屋だけでなく,質屋や売女屋,旅籠屋も襲われている。さらには,百姓一揆の際に「契状」(規律)を守らなかった家も打ちこわされている。
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従来の歴史解釈が随分と見直されてきている。部落史の見直しとの相補的な研究により,その成果はさらに進展することだろう。そして,それら研究成果は,遅ればせながら教科書に反映されていく。ここ十数年の間でも,教科書記述は大きく変わってきた。教科書の改訂は4年ごとに行われるが,記述内容はそれ以前の研究成果しか反映されない。場合によっては,数度の改訂でも見直されることのない記述もある。

教科書を教えるのが教師という思い込みや,文科省という国家権力と教育委員会に規制されて何もできない立場にあるという先入観から教育現場を想像して非難する人間もいるが,「学習指導要領」を一度でも読んだことがあればわかるはずだが,それほどに型にはまった規制があるわけではなく,むしろ自由裁量の幅は広い。
私にしても,教科書記述にない内容や,新しい研究成果を踏まえた解釈を教えることも多い。教科書の指導書にも,さまざまな見方や考え方などが参考資料として紹介されてもいる。

ただし,断定的な価値判断だけはしないようにしている。なぜなら,言葉や表現によって,その受けとめ方や認識が大きく変わるからである。たとえば,「言う」と「豪語する」では,受け取る人間によってイメージや、含めた意味すらがちがってくることもある。

伝える人間の価値観や解釈が伝える言葉や表現に作用したり,あるがままを伝えず,恣意的に付加する言葉や表現によってそのままではなく別物を伝えてしまったりすることがある。まして,悪意があれば尚更だろう。曲解したうえに,歪曲して伝えれば,その解釈が悪意に満ちていたり,別の意図をもっていたりすれば,的外れどころかとんでもない誤謬と錯誤を招くことになり,無責任な結果を引き起こすことになる。
中には,最初からそれが目的であるとしか思えない記述や,論破を目的に批判することだけに終始する論法もある。そのような文章が闊歩する中,結局は読む側の思考力や判断力が試されているのかも知れない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。