光田健輔論(19) 建て前と本音(4)
前回まで近藤祐昭氏の論文『ハンセン病隔離政策は何だったのか』を検証してみた。それは牧野氏や藤野氏が危惧するハンセン病問題を「時代の制約」に責任転嫁する論調を感じたからである。「あの時代であったから仕方がない。あの時代にあって、光田健輔は最善を尽くした」という論調は、光田の功績を讃えることで、彼の罪過を見逃そうとすることである。
そのような最近の傾向に対して警鐘を鳴らす一人である元邑久光明園長の牧野正直氏の一文を再掲しておく。
私もまったく同感であり、非情な危機感を抱いている。「らい予防法」廃止以前からハンセン病問題に関心を持ち、長島愛生園に頻繁に通い、入園者との交流を持ちながら、ハンセン病問題と部落問題の共通性と独自性に着目しながら歴史的背景を中心に学びを深めてきた。「らい予防法」廃止に向けた運動に微力ながら参加し、国賠訴訟の推移を見守ってきた私は、勝訴と控訴断念を無上の喜びとしながらも、心の片隅に不安を感じていた。これが終りではなく、新たな闘いが始まる予感もしていた。入園者ではなく、我々が立ち上がらなければならない闘いであると思っていた。それは「二度と同じ過ちを繰り返さないため」の検証であり、歴史から風化させないための「啓発」である。そして歴史に逆行する反動的な「修正主義」との闘いであり、その主舞台は「教育」であると思っている。
同じ危惧を持っていた藤野豊氏が大著『「いのち」の近代史』以後を書き上げた『ハンセン病 反省なき国家』より、いくつかの事案とその考察からの提言を紹介しておく。特に、第5章において、厚生労働省による判決への「まきかえし」がおこっている、その実際について検証している内容を抜粋・引用しながら私見を述べておきたい。それは第5章の副題として掲げられている「強制隔離正当化論の復活」に端的に示されている。私が危惧してきたのもこのことであり、事実、そのような論調を少なからず耳にしてきた。同じ教員からも聞いたし、部落問題に関わっている人からも聞いた。
光田健輔弁護論が隔離政策擁護論へと転化していく。隔離政策弁護論が光田健輔擁護論へとすり替わっていく。その根拠は「時代であり、人権意識の未熟さ、病理学や医学の未発達」等々があり、一応に「現在とは異なる社会政治状況だったのだから仕方がなかった」「そのような状況においては最善であった」と結論を下す。事実そうであったとしても、それで終りにしてよいのだろうか。時が過ぎゆくままに「過去のこと」にしてしまうことは、徐々に消し去ろうとする国家の「隠蔽」に加担することになり、残されるのは「偉人への顕彰」だけとなる。
ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker)の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という言葉は有名であるが、演説すべてを読んだ人は少ないだろう。全文を是非とも読んでほしい。
https://r.binb.jp/epm/e1_6434_07022015122740/
ここでは、『ウィキペディア』「リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー」より次の一節を転載する。「ユダヤ人」を「ハンセン病患者」と置き換えて読んでほしい。
「人間は遠くのことは、どれほど美しい言葉も語ることができる」という言葉を教えてくれたのは、部落問題に真摯に取り組み続けている徳島県の森口健司氏である。このヴァイツゼッカー大統領の伝えたい意味も同じであろう。ハンセン病問題という「過去」に「目を閉ざす」べきではない。ましてハンセン病問題は終わってはいない。
藤野氏の『ハンセン病 反省なき国家』より抜粋・引用しながら私見を述べておく。
まず藤野氏は国によって高松宮記念ハンセン病資料館がリニューアルされ「国立ハンセン病資料館」として再開館されたことで、展示や説明が大きく変わってしまったことを指摘する。
展示室は「歴史展示」「癩療養所」「生き抜いた証」に大別される。「歴史展示」では、特効薬プロミンによる化学療法が開始される1947年を境に「有効な治療薬がなかったころ」と「有効な治療薬ができたあと」に二分して、「病名」「原因」「治療」「症状」「周囲の目」「どうすればよかったのか」の六項目について比較して説明する展示となっている。
この指摘は重要である。来館者の多くはある程度ハンセン病について学んでいるとは推察するが、それでも歴史的背景など詳しくは知らないと思われる。資料館での学習を目的としている修学旅行や学校のフィールドワークでの見学であれば尚更だろう。初学者などは鵜呑みにしてしまいやすい。
このような歴史区分では、光田健輔の「絶対隔離」が正当化されてしまう危険性が高い。光田や彼に追随した各療養所長や医官、政治家や官僚の目的が如何なるものであったのか、上記のヴァイツゼッカーが明らかにしたナチスの目的そして狡猾な手段、見て見ぬ振りをするか他人事のように傍観した人々、積極的に「ユダヤ人狩り」に加担した人々(日本の「無らい県運動」)など、あまりにも酷似している。そうした「真実」が「有効な治療薬がなかった」から「予防」のためには仕方がなかった、あるいは浮浪する患者を救済するためには仕方がなかった、と暗に納得させてしまう危険性をはらんでいる。
実は、私も今夏、リニューアル後に初めて訪れたのだが、きれいに整理された館内に驚く一方で、以前に初めて訪問した時とのあまりの違いに驚きを隠せなかった。以前の記憶も朧気となったいたが、館内を見学しながら徐々に思い出して、整然とした展示の「誘導」に違和感を禁じ得なかった。
この展示の影響の先は、前回まで検証してきた近藤祐昭氏の論文の論旨である「戦前の日本の時代社会の持つ大きな制約の中で、多様な矛盾葛藤を抱えてハンセン病隔離政策は生み出されていったし、また矛盾葛藤を抱えながらその運用はされていった。」に帰結することになる。近藤氏は、光田は国費による療養所の運営を行うために、ハンセン病の感染力を強力であると喧伝したのだと正当化している。厚生労働省と同じ発想である。
「癩予防ニ関スル件」および「癩予防法」成立の背景、光田健輔や内務省官僚の主張、旧帝国議会での審議などを調べれば、なぜ「感染力の強い病気」とされたのか、「国辱」と排斥されたのか、「周囲」=社会・世間に誰が喧伝したのか、なぜ喧伝する必要があったのか、等々が明らかとなる。
しかし、多くの人々は国立のハンセン病資料館が展示・説明していることをそのままに、少しの疑問もなく受け入れるだろう。それが正しい「認識」として残っていく。何よりそのことが恐ろしい。
一見すれば確かにと思える表現ではあるが、第三者的な傍観目線、過去の出来事として「もしあの時にこうしていたら…」という他人事のような表現である。展示写真でインパクトを与え、さりげなく事実に対する説明と心情に訴える言い回しで、肝心の「なぜこのような事態になり、だれが適切な対応をしなかったのか」が抜け落ちている。「差別や偏見」という誰もが持ち得る可能性のある、目に見えない<観念>の責任に転嫁されている。直接に主導した光田健輔や療養所長、内務省官僚の責任が曖昧にされていく。
以後も、展示及び展示文に対する藤野氏の鋭い考察による指摘が続くが、詳しくは『ハンセン病 反省なき国家』を読んでいただくとして、私が特に気になっている部分について述べておく。
最も国が隠したいのは、強制収容・絶対隔離・強制労働・懲戒検束・断種・堕胎など療養所で行われた<実態>に国がどのように関与していたかである。それは戦後になりプロミンによる治療が効果を上げて以降、つまりハンセン病が化学療法により治癒する時代になっても、国が隔離政策を継続したことにより「社会の偏見が助長されていった」事実である。
展示の説明には、肝心な部分で「主語」が消え、「推量」の表現によって隠されている。国賠訴訟や検証会議の報告などは形式的な事実紹介の展示となる。そして、藤野氏が言うように「ハンセン病患者から人権を奪った元凶は社会と国民の差別意識に還元される。国が隔離政策をとったのも、こうした社会の差別意識があったからと説明されている」のである。
NoteやBlogには、時折、新聞や雑誌、Web記事などの啓発、あるいは講演や講義などに触れてハンセン病問題を知ったり、関心を寄せたりして「国立ハンセン病資料館」を訪問したことを「記事」にされている方がわりと多い。長時間をかけて展示に心動かされ、説明文を一字一句読まれ、証言DVDに涙されたことを、自分が感じたさまざまな思いや疑問、これから何が自分にできるかなど正直な気持ちを書いている。だが、重要なことは「欺かれるな」ということである。
それは、TVが制作する「ドキュメンタリー番組」にも言えることである。藤野氏は、「国立ハンセン病資料館」の欺瞞に続けて、テレビ熊本が制作した「ハンセン病、迷宮の百年-医師たちの光と影-」(2007年10月)について検証している。
残念ながら私はこの番組を見てはいない。それゆえ正確に検証することはできない。藤野氏の検証を読むと、熊本恵楓園長宮崎松記を中心に、光田健輔と小笠原登の事績を交え「隔離の歴史を検証する形で進められていく」らしい。その中心は入園者の証言である。当然、「相反する評価が存在する」が、藤野氏は「宮崎・光田への批判は、隔離を推進したという事実にもとづくものであるのに対し、讃辞は感情に訴えるものであ」り、「番組はこの感情論を前面に出してふたりを擁護していく」と批判する。藤野氏は番組に登場する入園者や元園長などの証言やインタビューの認識や主張の誤りを的確に指摘する。これ以上はやめておくが、最も気になったのは駿河療養所の元園長石原重徳氏の発言である。
石原氏は「プロミン治療が効果を発揮した後も、隔離政策を続けたことは間違っていない」と豪語し、断種手術についても「ある程度は仕方がなかった」と弁明している。藤野氏は「石原氏の頭のなかには、光田の考え方そのものが、すなわち、絶対隔離の思想がまったく矛盾なく生き続けているのである」と批判する。私も、まるで自分がおカネを出して患者を治療しているかのような石原氏の傲慢さに呆れ果てる。石原氏は自らが行った「断種手術」に責任を感じないのだろうか。彼が我が子や孫を抱いて喜びを感じているとき、自らが断種した患者にはその喜びを味わうことは生涯ないのだと思うことはないのだろう。
私がここ数回取り上げて検証した近藤祐昭氏の論旨も石原氏やこの番組が展開した論調と同じである。事実認識をすり替え、都合の悪い事実は隠蔽し、有利な証言を多く選択することで、正当化を図っている。何より、目的のために「手段」を正当化しているのである。
藤野氏は国や省庁の「まきかえし」と言うが、なぜ「まきかえす」必要があるのか。まさか裁判に負けたことへの<意趣返し>などではあるまい。
昔、なぜ「ハンセン病問題」にこだわり続けるのかと問われたことがある。その時に何と答えたか正確に覚えていないが、高橋和巳の言葉「知ったことに対する無関心は悪ですらなく、人間の物化である」に喩えて答えたような気がする。
初めて長島愛生園を訪ねたときに感じた寂寥感を忘れることができない。ただ無機質な同じ形状の建物が整然と並び、いくつかの区画が存在する間に宗教施設が点在している。今よりもはるかに入所者の数は多かったはずだが、それでも人の気配はあまり感じることはなかった。ひっそりと静まりかえり、動きを感じるのは職員の働く姿であった。
主を失った空室や棟があちらこちらにある。朽ちかけた部屋にはまだ段ボール箱や荷物が残されていた。引き取り手がないのだろう。海岸線には廃墟と化した住宅跡や倉庫が潮風を受けていた。何もかもが、やがてゴーストタウンのように風化していくのかと思った。
様相は異なるが、同様の感慨をもったのは、「明六一揆(美作騒擾)」の史跡を歩いたときである。どちらも歴史の闇の中に埋没しようとしている。人々の記憶からも消え去っていく。被害者の無念は加害者の罪過とともに消え去っていくのだろうか。<史実>だけが残されていく。せめて虚実を明白にし、「正当化」「美化」だけは防ぎたい。それが私のこだわり続ける理由かもしれない。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。