見出し画像

「渋染一揆」再考(10):差別からの解放

従来の「渋染一揆」の授業実践で強調されてきたことは,次のようにまとめることができるだろう。
「渋染一揆」とは,差別的な衣服の着用を強制した岡山藩に対して,被差別部落が団結して抵抗し,差別法令の空文化(実質的撤廃)に成功した人権闘争である。特に,授業実践でのポイントは,①「渋染」「藍染」という差別的な衣服の着用を「別段御触書」として被差別部落に命じた岡山藩の差別性,②それを差別と見抜き抵抗した被差別部落の人々,③岡山藩の被差別部落(53ヶ村)の団結力,④静かな,しかし意志強固な闘い(強訴),⑤尊い犠牲者を出しながらも,「別段御触書」を空文化することに成功した,という点である。しかも,社会科においては,教科書記述を補足する程度の歴史的背景の説明であり,道徳では,読み物教材を使用し内容を理解させる授業がほとんどである。はたして生徒の脳裏に残る知識は,如何なるものであろうか。

昔,一人の教師が違反の制服を着ていた生徒を注意している場面に出会った。教師の注意に対して,その生徒の吐き捨てるように言った言葉に唖然としてしまった。その生徒は「わしら渋染と同じじゃ。渋染一揆を起こすぞ」と言った。しかも嘲笑的に。
「渋染」の衣服に差別の根拠を求め,その着用が差別であると説明し,殊更に嫌悪感を煽るような補足説明を加味することで不当性を強調した結果,生徒には「渋染」に対する悪しきイメ-ジのみが残ってしまった一例であるが,このような生徒はほんの一部と言い切れるだろうか。「差別」の本質を見失い,<史実>の断片のみが記憶として残っていく恐ろしさを教師は知っているのだろうか。

1 <生命の流れ>を守った闘い

彼らは「渋染」の衣服が嫌なだけで,生命を捨てて強訴に踏み切ったのだろうか。しかも,20数ヵ村の千数百人もの人間が。なぜ,岡山藩は「別段御触書」を出したのだろうか。岡山藩の目的は何だったのか。さらに,岡山藩は被差別部落をどのように認識していたのだろうか。一般百姓(農民)は,この法令をどのように受け止め,「渋染一揆」をどのように感じていたのだろうか。さらには当時の一般百姓の被差別部落への意識はどのようなものだったのだろうか。なぜ,彼らは伊木若狭を強訴の相手と選んだのか。選ぶ根拠(理由)を如何にして知り得たのか。如何にして「歎願書」を書くだけの能力(学問)を身につけていたのか。

これらの疑問に答えることもなく,ほとんどの教材や授業が,差別への抵抗,人間としての誇り,団結と実行力,闘いの勝利ばかりを美化し,勇敢に一揆へと向かう人々こそが価値ある姿と説明してきたのではないだろうか。もちろん命を懸けて人間としての尊厳を守ろうとした姿を通して多くの学び得るものはある。しかし,嘆願書に込められた思いを深く読み取ろうとすれば,一揆の先頭を歩く者の方が,弾圧や拷問に負けて判を押さざるをえなかった者よりも価値が低いとは言えないのではないだろうか。我々教師の多くは,感動を伝え価値を教えることに力点を置くあまりに史実を美化してきたことはないだろうか。

…この問題は生命がかかっていると思うんです。現実に部落問題が存在しているのに,このことをいいかげんにしてたら,私たちはこの問題でずっと苦しんでいくことになるかもしれないし,この問題に関わる自分を考えたら,これはやっぱり生命に関わる問題だと思うし,こんな差別でつぶされたくないし,本当にみんなが強くなっていくためにも,…みんながつながってこの差別を生命に関わる問題として,考えなくしていかなければいけないと思います。
(徳島県板野中学校『1995年度 峠を越えて』「渋染一揆」全体学習)

この生徒の発言こそが,「渋染一揆」の本質を的確に見抜いている。「渋染」の着用が問題ではなく,その着用によって自分たちの子孫へと託していく“未来”が閉塞される危機感に怒りを持ち,立ち上がったのである。子孫へとつなげようとする<生命の流れ>,いつの日にか訪れる平等な未来への願いが「差別」によって押し潰されることへの怒りと抵抗が「渋染一揆」の本質である。それは,身分解放を目指した被差別部落の歴史が証明している。

2 差別と闘い続けた岡山藩の被差別部落

①「お役目拒否(返上)闘争」(1702年)
岡山城下5ヵ村の部落は,国守村の「穢多頭」の指図によって,刑の執行や死体の処理の役目を受けていた。1702年,「死骸の取り捨ては,非人の仕事であって,<御百姓>たる我々の仕事ではない」と拒否。1712年,裁判の結果,敗訴。

②「真宗(浄土真宗)への改宗拒否闘争」(1782年)
幕府の差別強化政策の一環として,大阪の町奉行が「真言宗に部落寺があるはずがない」として,「真宗」への改宗を命じる。備前の部落寺は,真言宗の「常福寺」(御野郡下伊福村国守)である。部落の対応は,宗旨の問題ではなく,これは<差別>であり,もしここで真宗に改宗したら,子や孫まで,今まで以上の差別を受けるとして,2000戸ほどの檀家が拒否する。住職(智心)が寺を出て,「無住」となる。岡山藩は「常福寺」の檀家を「仮旦那」に拒否する真言宗寺院を説得し,仮旦那寺としている。備前の部落民衆の改宗拒否闘争が強く,無理に改宗はできないと判断する。部落民衆は岡山藩寺社奉行に,「常福寺」の再興の請願を繰り返す。1796年,再興の念願を達成する。

③「伊勢大神楽差別事件(糾弾闘争)」(1795年)
森本忠太夫ら伊勢大神楽の一行が,例年のごとく備前を訪れ,上道郡沖新田外七番で「家内安全」「五穀豊穣」を祈って神楽を廻していた。村の百姓が集まって見物しているところへ,隣村や新田七番の部落民が大勢やってきて,自分たちの村でも神楽を勤めてくれるように頼んだ。「穢多村」で神楽を勤めたことはない,と差別的に拒否する。神楽一行の定宿であった西大寺村の旅篭に押し掛け,部落での神楽を拒否すれば,沖新田の村々への出入り一切を差し止めると強く抗議する。楽頭は,外七番の名主(安五郎)宅に助けを求めて駆け込む。1年間,まったく手をつけないで,放っておいた。楽頭は,藩の役人に「嘆願書」を出している。

従来,これらの闘いの多くは,単に被差別部落の「差別」(差別政策や差別法令,差別的対応)への抵抗と解釈されてきた。しかし,これらの抵抗や闘いの背景には,被差別部落の<解放への歩み>があり,そのわずかな一歩の蓄積が大きな一歩となり,権力(藩や幕府)あるいは一般民衆への脅威となったとき,身分制度や身分秩序の維持を目的に「差別」が強化されている。すなわち,被差別部落民の日常的な日々の生活における「脱賤化」の動き,解放への動きがあったからこそ,「差別」が生まれたのである。換言すれば,<社会外の社会>(秩序外の存在)であった被差別部落が,<社会内の社会>(秩序内)へ侵入してくること(秩序の崩壊)への危機感が高まって,身分の引き締め,秩序の強化(堅持)として「差別強化」が行われたと解釈すべきではないだろうか。

3 史実に込められた「思い」

①「別段御触書」の目的

a「元々身分の賤しい者であるから,平百姓に対しては身分の程をわきまえて,万事へり下った態度をとるのが当然である。」
b「このことは前々からよく知らせているはずだが,中には心得違いの非礼我察の者がいるとも聞いており,けしからんことである。」

これらの文は,「渋染一揆」の原典といわれる『禁服訟歎難訴記』に書かれている「別段御触書」の前文であり,なぜ「別段御触書」を出したかの理由を説明している箇所である。
bの「このこと」とは,aの文意を指す。つまり,百姓に対して身分の程をわきまえた行動をしなさい,と「前々から」命じているがなかなか守らない。この度,百姓に「倹約令」を出したから,被差別身分の者たちも「別段御触書」を守りなさい,ということである。
bの文意を別の角度から考えれば,守られていないからこそ「前々から」という文になるわけで,守られていればこの表現は必要ない。つまり,aの文意にある「身分の程をわきまえて」いないで,「へり下った態度をとる」ことをしない者が,ここに書かなければいけないほどの人数がいるということである。

c「却って平人より身分高振有之趣」
d「近来穢多非人等之類風俗悪敷,百姓町人へ対し法外之働いたし,或いは百姓体粉かし」
e「穢多隠亡之類居小屋衣類等平人に粉し不申様別て引下がり可申」

これらの史料は,平人(一般民)に対する被差別部落民の態度や生活を問題として出された法令の一部である。先の史料と合わせて考えるならば,当時の被差別部落民の生活や経済力の水準は平人と同程度のものであったという査証である。すなわち,被差別部落の生活は必ずしも「貧しく」「悲惨な」状態ではなく,また「平人より身分高振」という点から,態度も「へり下って」いるだけでなかった。このことは,被差別部落の<脱賤化>を意味しており,<脱賤化>とは「平人化」(百姓と同等・平等)を目指したものであったと考えられる。つまり,身分解放への動きと理解できるのである。それゆえ,「別段御触書」の目的は,百姓からの年貢徴収を容易にするためには,百姓の節約徹底も必要であるが,同時に被差別部落の平百姓と同様の生活,行動を放置したのでは百姓の納得は得られないとして,被差別部落に対する規制を求めたと解釈すべきと考える。

②<脱賤化>の基盤
江戸時代の被差別部落にとっての「身分解放」とは,「百姓化」であった。それは,田畑を所有し耕作することであり,年貢を納めることであった。『禁服訟歎難訴記』には,「散田」「荒田」を開墾もしくは購入し,農地を広げ,高い年貢率であっても年貢を完納している我々と百姓を「別け隔て」しないでいただきたいと歎願している。

③学問的素養
『禁服訟歎難訴記』には,被差別部落の学問的素養の高さを示す逸話が多く書かれている。豊五郎は「禁服訟歎難訴記」の作者。良平は牢庄屋の書役(書記)。弥市は牢庄屋に寵愛され,隠居庄屋の格で牢庄屋の脇に座を与えられ,牢庄屋に学問を教授している。友吉は地方きっての知識人であり,秀才であり,「学制」発布後,「小学」の教授に任命されている。
このことは,被差別部落の「低学力」「無学」のイメ-ジを根底から覆す証拠であると同時に,<脱賤化>の基盤として経済力とともに学問的素養の必要性を認識していたことを示している。このことは,助三郎や豊五郎が寺子屋を開き,部落全体の知識力を上げる努力をしていたことからも推察できる。それゆえ,岡山藩の政治や財政状況を的確に把握することができ,交渉相手に伊木若狭を選ぶことができたのである。さらに,あれほどに論理的な「嘆願書」すら作成することもできたのである。

4 <差別>とは何か

「嘆願書」に繰り返し書かれる表現は,「隔」「御隔」「指別」「御指別」の言葉である。ともに「分け隔て」を意味する。つまり,「別段」を設けること,百姓と「分け隔て」られることを「差別」と認識しているのである。すなわち,「差別」の本質を<社会・秩序からの排除>と認識し,<社会・秩序>への編入(参入)を解放への道と考えて「百姓化」を目指した被差別部落に対する新なる「排除の強化」が差別政策や差別法令と捉えたのである。それゆえ,この「排除」の差別法令を,解放(百姓化)への弾圧として受け止めたのである。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。