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光田健輔の「患者観」(1)

―全国にはどのくらいの病者がいるのか見当もつかない。おそらく十万人くらいはあるとさえ考えられるのに,政府も,社会もこれに対して何の手段も考えていない。したがって病者はいたるところにその病毒をふりまいて,はばかることなく,社会はそれをおそれるけはいもない。
たまにこの病者に同情して救いの手を伸べたものはすべて外国の人々である。外国人の好意だけに甘えて,世話になって,政府も個人も何とも考えていないらしいのである。
私は義憤を感じた。この恥ずべき病者を多くもっていることは文明国の恥である。さらにそれを街頭にさらして何の方法もとらないことは,何という情けないことであろう。
―即ちライは,最愛の家族に感染させてその生命をほろぼすとともに,その部落を汚し,村を汚し,地方全体にそのわずらいを及ぼすのである。互にその害を避けるためには早く療養所に入って治療を受け菌を外部に散らさないようにすることである。それが最上の道なのだ。家を潔め,村を浄め,県を清めて国からライをなくしてしまう。そのためには,「一人のライも健康者の中に交じっていてはならないのである」

光田健輔の『回春病室』より上記の一文を引用した後,徳永進氏は『隔離-故郷を追われたハンセン病者たち』で,次のように光田を批判する。

光田健輔の「祖国浄化」への熱意が,らい者に悲しみを強制した。光田健輔は確かに,らいを病むことの悲しみを社会的に最小限にくいとめるために隔離をはじめた。しかし,隔離のやり方の中で,彼はいくつかの間違いを犯した。

徳永氏は,光田の「隔離」の間違いを,「終生」と「強制」にあるとし,それは彼が「生活者としてらい者をみることよりも,この国から一人のらい者もなくするのだという官吏の立場をいつも優先させた」からだという。

らい医学会の権威者でもあり,官吏でもあった彼の完全隔離実施の考えそのものが,国家のらい者への拒絶となり,それが上から下へと指令され,日本中の故郷へ広がっていったのだった。
そして拒絶は,国家の側からだけに留まらなかった。国家の意図に貫かれた故郷の人たちの側からもあった。多くのらい者が聞き書きのなかで,故郷の人たち,そして家族の人たちの拒絶のことを語っている。

先の引用の中にも光田健輔の「ハンセン病」及び「ハンセン病患者」に対する見方・考えが端的に表れている。例えば,「この恥ずべき病者を多くもっていることは文明国の恥である。」「ライは,最愛の家族に感染させてその生命をほろぼすとともに,その部落を汚し,村を汚し,地方全体にそのわずらいを及ぼすのである。」という表現であり,この表現のどこに「同じ人間」として「ハンセン病患者」を見ていると言えるだろうか。

ハンセン病患者を「座敷ブタ」と呼んでいた光田健輔の「患者観」とは如何なるものだったのだろうか。
光田健輔が書き残した論文や随筆はそれほど多いものではない。また,現在それら殆どは,図書館にあればよい方で,古書店でも入手困難な状況である。
光田健輔には2冊の自叙伝がある。『愛生園日記』と『回春病室』である。古書店より購入したこの自叙伝を通して,光田の患者観について考えてみたい。

私は光田健輔について調べるほどに,特に彼の書いた文章を読むほどに,彼の頑固と言えるほどの意思と信念の強固さを感じる。
ハンセン病の専門医師として自分の考えこそが唯一絶対であるという「自負心」をもち,他者の意見を受け入れることもなく,まして自分の考えや理論に反対する者には過敏な反応をし,容赦なく執拗に攻撃する。彼の偏狭な正義感と思い込みの激しさ,自意識過剰な言動は,対人関係において「自分に賛同する者には限りなく優しく愛情を注ぐが,自分の意に沿わない者や反抗する者に対しては冷酷なまでの仕打ちを行う」という両極端な対応をみせる。このようなタイプの人間を時として見かけることもあるが,光田ほど極端な「自己愛的人間」と「同質の体質」をもつ人間は一人しか知らない。光田健輔もその人物も相当に変わっていると思うが,私とは決して相容れることのない「異質な」人間であることは確かである。

ところで,誤解なきように書いておきたいが,私の目的は光田の人間性や人格を分析することではない。また,彼の「差別性」を暴き,糺弾することでもない。私は光田健輔という人間自体には興味も関心もない。彼を通して,彼の生きた時代背景や社会意識,思想などを考察することで,わが国のハンセン病史をまとめてみたいのである。



部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。