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「ハンセン病」問題を問う

ハンセン病患者の置かれてきた社会的立場や周囲の彼らに対する偏見・差別の様態と対応を見るとき,彼らは「人間」とは見なされていなかった事実を我々は認識すべきである。「同じ人間」としての差別ではなく,「人間と同じではない」という差別を受けてきたのである。だからこそ,彼らが訴訟で訴え,勝訴の後のインタビューで「これで人間として生きられる」と語った意味が理解できるであろう。長島大橋が,なぜ「人間回復の橋」なのかを理解できるであろう。被差別民も,被差別部落民も同じである。彼らを「人間」と見なさなかった我々の対応や意識こそが「差別と偏見」を生みだしてきたのである。「らい予防法」の廃止が「解放令」であるならば,今回の裁判と勝訴は「解放令」以後の解放運動と「同和対策審議会答申」に重なるように思える。このどちらにも共通するのは,「解放令」も「らい予防法廃止」も政府の責任であり,政府の対応であったという我々の「他人事」の意識が大きな課題として残っていることである。

しかし決定的な違いは,約130年の歳月が,確実に「人権を拡大してきた」という歴史的事実である。もし「解放令」以後に,多くに人々の解放への努力と運動と思想がなければ,あるいは他の人権問題の解決への歩みがなければ,どうなっていただろうか。同和教育の確かな歩みがなければ,どうなっていただろうか。我々の歩みは確実に未来を切り開いていると確信する。生徒に語るべき展望は差別の悲惨な実態である「負の遺産」を語るのではなく,わずかな歩みであったとしても確実に前進してきた「人権拡大の歴史」である。
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長島愛生園に高校があったことは,現地研修に参加された方以外にはあまり知られていない。まして,どのような教育現場としての日々であったかは語る者がいないため,闇の中に消えてしまいつつある。

教科書やプリントは熱湯消毒ができないため,スチーム上記を1時間程もかけてから手に取ったこと,教諭は白い予防服と帽子を着用し,生徒は職員室の立ち入りを一切禁止され,1日の教務が終わった教諭は風呂に入り身体を洗浄して帰路についたこと,等々の差別と人権侵害の凄まじい実態がった。無知が生み出す偏見と差別,ハンセン病のこと(遺伝ではないことも,感染力が弱いことも)を知っていても一抹の不安と恐怖心,それらがいつしか差別を肯定し,差別とさえ思わなくなってしまったという話に,人間の恐ろしさを思い知らされた。

職員室の前にはモールス信号のような個々の教師別に「合図の音」が出る装置があり,教師に用事のある生徒は「合図の音」で教師を呼んでいたそうだ。それをやめてほしいという生徒の要望に心ある教師が応え,要求運動を起こし,廃止させた話を聞いた。

差別との闘いは日常の思いと願いから生まれる。おかしいと気づき,それを声に出し,動きとすることで,人権はつくられ広がっていった。ここにも,ただ差別を受け入れて生きていたのではない姿があった。 

真か虚かを見分ける眼をもつことも大切でしょう。そのために学ぶことも大切でしょう。しかし,知ったことに対する責任を果たすことが何よりも大切と思う。高橋和己は「知ったことに対する無関心は罪ではなく,人間の物化である」と言った。何のために知るのか,知ることだけで満足することは何も変わりはしない。 …………………………………………………………………………………………………………
中世においてハンセン病者は「カタヒ」と呼ばれ,「えた」「ひにん」と同じく賤民として賤視を受けていたことは,部落史研究において明らかであるが,断片的な研究が多く,歴史的な全体像は今後の課題と思う。横井清氏は「病者は諸国の『非人宿』に身をおいた」と『光あるうちに』で述べているし,上杉氏は北陸地方でハンセン病者が「物吉」とよばれ賤民として処遇されていたと述べ,また「非人」の中にハンセン病者が「非人」の中に含まれていたとも述べている。

『もやい』(ながさき部落解放研究紀要)の43号に,幕末の日本にオランダ商館医として来日したドイツ人オットー・モーニケが書いた『日本の「エタ」あるいは「エトリ」』の解説と翻訳が載っていた。彼は日本のことに詳しい日本人から聞いたことだと自分の根拠を明示しながら,部落の起源をハンセン病との関わりに求めている。彼の学説は学問的には実証できないが,この論文を見聞録として読むと,江戸時代の「エタ」やハンセン病者がどのような生活状態であり,周囲(世間)や社会からどのような処遇を受けていたのかがよくわかる。彼は,「エタ」(「非人」と私は思いますが)の集落で一緒に生活していたハンセン病者を見て,ヨーロッパにおいてハンセン病者が隔絶されていたことと関連させて,彼は起源をハンセン病に求めたのではないかと思う。彼の見聞録は外国人から見た部落問題の実態として貴重な史料と考える。
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人権意識とは「感性」であり「感受性」だと思っている。昨年の夏,療養所に入所されている方が古里を訪問するNHKのドキュメンタリー番組があった。温かく迎える古里の人々に感動を覚え,時代の流れと社会啓発の大切さを感じながら見ていた。しかし最後の場面で,思わずはっとした。古里の人たちが別れに際して発した言葉は「いつでも何度でも来てください」であった。「帰ってきてください」ではなかった。何十年の歳月が意識を変えたのであろうか。
たかが言葉かもしれないが,私は「帰って」ではなく「来て」と言った人間の認識を考えてしまった。ハンセン病に対する人々の認識は大きく変わりつつあるけれど,未だ根底には社会的な偏見と,偏見が生み出す差別が現実に存在していることを垣間見た思いがした。ハンセン病者を出した家や家族が周囲から受けた偏見と差別は想像を絶するものであることは,療養所の方々からの聞き取りで知っていたが,その痕跡は今も人々の認識に残っているのだと改めて知った。
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1900年(明治33)内務省による第1回のハンセン病調査が行われ,約3万人のハンセン病者がいると報告されている。第2回は1906年で約2万3千人,第3回は1919年で約1万6千人とされている。1940年まで続けられた不定期な調査ですが,それでも1万5千人以上は報告されてはいません。しかし,絶対的隔離主義を積極的に提唱し,政府の隔離政策の中核的役割を果たしてきた光田健輔氏が「癩隔離所設立の必要に就いて」と題する論文を発表したのは1902年でした。彼は,この中でハンセン病は感染症であり,隔離の必要性があると力説している。この論文を読むとき,医学的研究が不十分な時点での判断であったとしても,あまりにも差別的な状況分析と見方であると思う。しかも,「…病勢次第に旺盛となり其数実に十万を下らざるべし…」と書き,「社会に病毒を蔓延せしむること多大なるは論を埃たざる」として,早急なる隔離政策を実行すべきであると提言している。内務省の調査を彼が知らないはずはないのだが…。

光田氏のハンセン病対策のもう一つの柱は「断種手術(ワゼクトミー)」である。彼が違法を承知で最初に手術を実行したのは,1915年であった。感染病であると断言している光田氏がなぜ断種手術を提唱し,実施していったのだろうか。明らかに矛盾しているにもかかわらず…。
彼が断種手術を実行した時点で,内務省内では意見は賛否分かれていた。内務省内の衛生技師であった氏原佐蔵はドイツの優性思想の影響を強く受けた断種推進論者であり,光田氏は彼の意見に左右されたと考えられる。光田氏は感染しやすい体質は遺伝すると考えていた。しかも胎内感染の可能性が高いとも考えていた。一方で優性思想の影響を強く受け,他方で感染病であると言いながらも遺伝を否定し切れていない光田氏の認識が,今日的な悲劇を生み出していったのだ。彼の考えは,やがてハンセン病者に対する中絶を合法化する「優生保護法」へとつながっていった。
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「排除」「社会外の存在」「隔絶」「隔離」をキーワードとして考えるとき,ハンセン病問題と部落問題が共通の概念に括られて,歴史的に同様に扱いを受けてきたことが見えてくる。差別してきた側の論理もまた共通であったことも見えてくる。それは「同じ人間と見なさない」「人間そのものの対象外としてとらえる」論理であり,その論理を支える理論も各時代によって共通であったと思う。まさに「人権を剥奪された存在者」であったのだ。だからこそ我々は,すべての人々が人間としての幸福な生活を確立するために「人権を拡大していく」ことが大切なのだと考える。

長島愛生園には全国で初めて、そして唯一つくられた高等学校があった。私の手元に、その高校を巣立っていった生徒たちが,過酷さの中を懸命に明日を探そうとする思いが綴られている卒業文集がある。その一つ紹介したい。

…今年の夏休み、私は母につきそって与論の中心部である茶花へと出かけた。観光シーズンであるため、町中は観光客でごったがえしている。車の往来もはげしい。そんな中を私は、母にぴったりくっついて歩いた。それは視力がうすく、足がさがり、パッタンパッタン歩く母をカバーするためである。しかし、私達に目を向けない人は、だれ一人いません。時には後ろをふり返る人さえいました。私にできることといったら、母をみつめている人が顔をそむけるまで、にらみ返してやることだけでした。
しばらく行くと、あるはき物の店が目についた。「ごめん下さい。」店にはいると、「いらっしゃいませ。」中年のおじさんがニコニコしながら顔を出した。ところが、母の姿を見るなりその人は急に変な顔つきになった。私はそんなことなどかまわずに、ずらっと並べられているはき物の中から、母の好みにあわせて、いくつかを足もとに置いた。「母ちゃん、はいてみたら。」母がぞうりをはこうとしたとたん、その人は、母に向かってこう言ったのです。「どうぞ、そのきたない足ではかないで下さい。」と、私は、その人の顔をみつめながら、「あなたはそれでも人間ですか。」そう言って、その店から出て行きました。言いたいこと、思っていることが言葉になって出てこないのです。その一言が精一杯でした。
「私のおかげで、つらい思いばかりして許してね、春美。」そう言って、家路に向かう母。何かにおびえながら、肩をふるわせ、悲しそうな母のうしろ姿を、私はどんな思いで見つめたことだろう。「母ちゃん。」何回も心の中で叫びながら、帰る道すがら、私の顔は、涙でぐしゃぐしゃでした。
どうして、同じ人間なのに、ライであるというだけで、これほど差別するのでしょうか。悲しい。自分と同じ人間を差別し、冷たい目で見つめる。そんな人にはらが立つのと、また、差別を受けながら、それをどうすることもできない自分自身が、情けなく、くやしくてなりません。私は、今日一日のできごとを忘れることはないと思います。それと、母ちゃんのあの後ろ姿と。
ライを理解することが叫ばれている今日でも、このような差別があるのです。ライへの理解は、まだある一部の人にしか理解されていないのです。私は、この世から差別が消え去るまで戦うつもりです。
(第22期卒業文集 昭和55年)

金泰九さんは「ライ予防法が廃止されたことはうれしいが、廃止されたことによる恩恵は実際にはほとんどない。なぜなら、私たちは黙って耐えていたのではなく、運動し闘って、「ライ予防法」をほとんど骨抜きの「ザル法」状態にしていたからだ」と言う。昭和45年頃には、もはや「ライ予防法」の「強制隔離」や「外出禁止」などの条項は形骸化された状態であったそうだ。ハンセン病患者は、マスコミが書くように、厳しい隔離の中で人権を無視された悲惨な生活をしていたのではない。園内の環境改善、待遇改善を「隔離政策」当初、開園された直後から要求してきたのである。
自治会を組織し、全国にネットワークを広げ、時に理不尽な懲罰を受けながらも地道な闘いをしてきたのである。権利を勝ち取ってきたのである。今回の訴訟も、その延長上にある。決して、今になって立ち上がり闘ったのではない。

先の少女の決意は、彼らすべての思いであり、だからこそ彼らは自らの人権を求め、人間としての当然のあるべき生き方を求めてきたのである。人権教育とは、人権総合学習とは、我々の先駆者が「人権拡大の歴史」を築き上げてきた姿を学び、その志を受け継ぐ者としていかに生きるかを学ぶ学習である。過去の悲惨な実態を知ることが学習ではない。過去の過ちを反省するだけでは展望は見えてはこない。我々は、ハンセン病問題を通して、差別を克服し、人権を切り開いていくことを学ぶべきである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。