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二律背反と画一化

言葉や表現の難しさを感じている。特に文章によって的確に意を相手に伝えることは難しい。同じ言葉・表現を使っても読む側の意識や心理によって,極端な場合は偏見や先入観,思い込みによって如何様にも解釈されてしまい,書き手と読み手の間に錯誤を生じさせてしまう。

誰からも指摘を受けないままだと,やはり独り善がりの文章を書くようになったり,解釈も自分独自の判断に偏ってしまったりしやすい。文章の目的にもよるだろうが,他者に向けての発信である以上,相互理解と共通認識を目的とした文章を書くべきと思う。

言葉・語句・表現の一つでまったく別の受けとめられ方をしてしまう。真意が伝わらないことがある。逆に,自分の受けとめ方によっては相手を誤解してしまうこともある。
自己主張が強い場合,その弊害も大きい。特に感情が前面に出ると尚更に過剰な反応をしてしまうことがある。思い込んでしまうことで冷静な判断ができなくなり,反発的な反応をとってしまいやすい。

自己主張ばかりの文章を目にしたり,感情的な発言を聞いたりすることがある。勝ち負けではないだろうと思うことや,火に油を注ぐことが目的ではないだろうと思う。
対立することではなく連帯することが目的であるにもかかわらず,相手をやり込めて自己満足に浸るような,あるいは「批判のための批判」「反発のため」といったものも多い。本来の目的とは遠くかけ離れていく議論ほど空虚なものはない。
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部落問題に関しては,どうして差別-被差別という「どちらかの立場」からの発言になるのだろうか。立場を明らかにして,あるいは立場を明らかにさせられての意見になるのだろうか。
まるで「敵か味方か」のような議論,勝敗がわかりきっている討議,そして感情論(高圧的・居丈高)で相手の意見を押し込めて沈黙させていく。最初から<あれかこれか>の二律背反的な思考が前提となって議論がすすめられる。そんな「場」を否という程に経験してきた。

自分の主張(に賛同する)以外は認めず,それ以外の立場からの意見はすべて否定する。そんな教条主義的な立場では,討論や議論はもちろん意見交流すら成立しない。
宗教の教義か軍国主義の思想教化と同じである。両者に共通するのが「自己の絶対化」と「他の排斥・排除」である。部落問題は,このような絶対的な立場,宗教のように教義や思想の絶対化,自説を認めない相手との自由な意見交流や他者の主張については否定・排斥しなければ完全解決しない問題なのだろうか。私は疑問に思っている。

なぜなら部落問題は,人間の生き方や在り方の問題と考えるからである。現在を生きる人間が「部落」を理由に特定の人間や集団を差別をするかどうかの問題である。
各々の人間が部落問題をどのように受けとめ,どのように理解し,どのように対応しようとしているかが問われるべきである。その認識や対応に影響を与えるのが「知識」であり「歴史的背景」である。
だからといって,部落史の特定の説以外を信じる人間は部落差別をすることになるのだろうか,その人間の部落問題への向き合い方や実践的活動は「似非」なのだろうか。私には納得できない。

部落史や,それに関係する個別史を学んできて思うのは,多様な歴史像(部落史像)であり,その時代を生きる様々な人々の姿である。
画一的・固定的な歴史像ではない。武士でも百姓でも,穢多・非人など被差別民でも,決して同じような歴史像でも人間像でもない。地域により時代により,藩により村により,そこに生きる人間によって様々な姿を歴史に残していると思っている。

現代より江戸時代の方が自由で多様な生活様式であったように思う。全国共通の言葉さえ確立しておらず御国訛で藩が違えば会話も不自由だった時代であり,貨幣流通のシステムさえ複雑であった時代である。各藩固有の統治システムもあった。当然,各藩独自の歴史背景の中で人々の社会通念や価値観も形成されていたであろう。
現代のような(明治以降の近代国家形成によってつくられてきた)全国統一的な統治システムに関して,江戸時代も同じであっただろうか。
現代では,例えば教師は全国どこでもほぼ同じスタイルの学校教育をおこなっているし,行政職員である公務員の仕事も全国ほぼ同じであるが,はたして江戸時代はどうであっただろうか。
私は江戸時代の統治システムを単純化させて画一的に把握することには反対である。

私が尊敬する林力氏は,本来敵としてはならない者を敵としていると自らの活動を問い直したと書いている。そして,彼は『人権百話』の中で周恩来の言葉を紹介している。

差別された者が差別した者と手をつないで,差別させた者と闘う

私はこの言葉は至言であると思う。自分にとって「敵か味方か」の二元論・二律背反でしか人間をとらえることができないことが,民族対立・宗教対立を生み,戦争の悲劇をもたらすのだ。
差別にしても同じだ。硬直化した教条主義が「目的のためには手段を正当化できる」という自分勝手な理屈をつくりあげる。そして目的のためなら如何なる手段も肯定される。
中世ヨーロッパにおける魔女狩も十字軍の遠征も免罪符の販売も…数え上げれば切りのない宗教の名の下での蛮行がある。戦争の要因は政府や国家のまちがった方策だけではない。また,異教徒に対する残虐な行為,差別的対応など宗教の絶対妄信が要因である。宗教弾圧による迫害ばかりを強調するが,その一方で宗教の美名・大義名分の下での非人間的な行為はどのように説明するのだろうか。

私が言いたいのは,誰にもまちがいはある。時代の制約がある。まちがいのない人間などいない。それを認めず,自分を絶対化・正当化して,その自分の価値観や解釈のみから,一方的に他者を非難することの独善性が新たな差別を生み出していると,私は言いたいのである。

自分の言動を省みることなく人を非難する人間を信頼する者はいない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。