enju

徒然に何か書いていけたら。

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最近の記事

うれしい誤算

小川洋子さんの「とにかく散歩いたしましょう」を読んでいる。読むのはもっぱら移動中で、バスや電車の中、病院の待合室などである。この本、エッセイ集のはずなのだけれど、うっかりすると涙をこぼしてしまうお話が多く、その度に「やられた」と思う。なにせ外なのであって、あまり見目良いものではないからだ。エッセイ集だから気楽に読めるだろうとたかを括っていた自分を呪いつつ、しかし小川さんの丁寧でやわらかい言葉で綴られる日常のあれこれがなんとも愛おしく、読むのをやめられないでいる。 じゃあ家で

    • 海馬に棲む鳥(再掲)

      私の海馬の片隅に眠る、あの影を私はいつまでも追い出せないでいる。それは小さな鳥の姿をしていて、何と言う鳥かは分からないが、青い嘴を持っており、体は薄緑がかっていて翼の先が微かに桃色をしている。瞼の開いているのを見たことがないので瞳の色までは分からないが、まつ毛はとても細く、長い。尾はさほど長くはない。その先が少し薄墨がかっていて、体や翼の色に比べてアンバランスな印象がある。いつも地面に座っているのでよく分からないが、どうやら片方の脚は失われているようだ。それでも飛ぶにはあまり問題なさそうだが、しかし飛ぶどころか翼を広げた姿すら見たことがない。ただいつもじっとして、瞳を閉じたまま静かに座っている。鳴き声を聞いたこともない、あるいは鳴かないのか、鳴けないのか。それすら定かではない。ただ、そこに居るのである。 追い出せないでいる、と言ったのは飼っているつもりもないのでいつかは出て行くのではないかと思っているのだが、どうにもその気配がないので、いつまでもこんな処に居ないで出ていけばいいのに、と思っているという程度の事だ。 せっかく翼があるのなら、羽ばたいて飛んでいけばいいのに。こんなに暗くて狭い処にうずくまっていないで。そう思う反面、そこに居たいのならいつまででもそうしていればいいとも思っている。どのみち邪魔にはならないのだから。 ただ、あの鳥の名前がいつか知れたらいいのにと思っている。

      • 2024/07/21

        自作の文章の朗読です。テスト的に作ったもの。BGMの演奏も自前です。カリンバは便利ですね。

        • 英語の思い出

          私が子供の頃はまだ英語教育は中学からの時代だったのだが、小学五年から近所の子供数名を一人の生徒の家に集めて、そこへ先生が教えに来てくれるスタイルの英語教室で勉強していた。他の子は引っ越したりやめたりで、最終的には私専属の家庭教師のようになってしまったが。中学三年の一学期で先生が個人的に塾を開くため家へ来ることができなくなり、私の学校以外での英語教室は終了した。私としては続けたかったが、先生の塾の場所は遠く、通うことは困難だった。 ただその五年ほどの英語教室のおかげで、大学を

        うれしい誤算

          ごみ箱に棲んでいる

          私の部屋がごみ箱になってからどのくらい経つだろう。こういった部屋には『コロニー』と呼ばれる場所があり、私の場合はそれがベッドになる。セミシングルという小さな面積の、さらにその一部分をそれとしている。比喩ではないのである。ごみ箱。部屋はその人の精神を映すと言ったりするから、多分今の私の頭の中にはいらないものが溢れているのだろう。もしくは、そういったものにまみれているのが心地よいのかもしれない。 部屋が綺麗だった頃は、頭の中が暴風吹き荒れる中を大量のごみが乱舞するような状態だった

          ごみ箱に棲んでいる

          これさえも愚痴でしかないけれど

          会社というのは、存外狭い世界なのであるらしい。会社勤めをしている友人の仕事の話を聞いていると、他の友人の話の中には出てこない独特の単語がたくさんある。それと似たような業種の人の話なのに、まったく聞いたことのない単語や用語が出てきたりもする。おそらくそれは、その人の会社でのみ(もしくはとても狭い範囲でのみ)使われる表現なのだろうと思う。がしかし、論点はそこではなく、それを「誰でも知っている言葉」という大前提で使っている節があることだ。話を聞きながら何とか理解しようとするのだけれ

          これさえも愚痴でしかないけれど

          表現に立ち塞がる壁。別に跨げばいいんだけども。

          最近、あまり海外の映画を見なくなった。見るとしても、派手なアクションの末にビルがドーン!みたいなエンタテインメントに徹した作品くらいだ。理由は、見えない壁に気づいてしまったからだ。 映画好きの人にも「字幕版派」「吹き替え版派」で色々あると思うのだけど、私はそれらに加えて「原語版」の3つを全て見て(聞いて?)確認しないと気が済まなくなってしまったのだ。 たとえば『エクスペンタブルズ2』だと、シュワルツェネッガーの出演作品『ターミネーター2』をイジった台詞があるのだが、吹き替

          表現に立ち塞がる壁。別に跨げばいいんだけども。

          京都、日帰り、覚え書き

          京セラ美術館にて開催中の『アンディーウォーホール展』を観に日帰りで京都へ。泊まりだと体調的に無理があるので、高速バスを思いつき、調べてみるとかなり安価に済ませられることが分かったので早速行ってきた。 結果、とてもつまらない旅だった。 無理をしないように、ちゃんと帰れるように。ただそればかりを意識し、自分のコンディションと体力、精神状態を気にしながらの旅程はただひたすら気力を磨耗するばかりだった。何かあってはいけないと。誰かに迷惑をかけるようなことになってはいけないと。だか

          京都、日帰り、覚え書き

          中3の夏休み、無人島でのキャンプ生活

          今更ながら不意に思い出して、なんだか面白い体験だったなと思ったので書いてみます。 中学3年の夏休み、私は塾の夏期講習に苛まれていた。元々、どうやら小・中・高校で行われる暗記中心の詰め込み学習が死ぬほど苦手だったらしく(その証拠に大学の学習スタイルがとても肌に合っていたようで、成績は気持ち悪いくらい良かった)、だからその権化のような連日の夏期講習で私の表情は完全におかしかったらしい。ある日、両親から突然「一週間くらいキャンプに行ってこい」と告げられた。そのキャンプというのが無

          中3の夏休み、無人島でのキャンプ生活

          脳が下すコマンドとしての「強制終了」

          ※前半、自殺に関する話題があります。苦手な方は回れ右でお願い致します。 以前、駅のホームからの飛び込みに関してこんな内容を目にした。「そういった方の残された所持品を見ると、携帯電話、家の鍵、お弁当やその日会社で行われる会議の資料など。つまり、その日その場所に来るまでは、いつも通りの一日を送るつもりでいたのが分かる。けしてその為にそこへ来たのではないのだ。そうでなければ、これだけの物を持って来ている理由がわからない」というものだった。また、あやうく飛び込みかけた方の文章には「

          脳が下すコマンドとしての「強制終了」

          究極の傍観者

          以前、よく使っていたSNSで知り合った方からそう言われたことがありました。その表現に、はたと膝を打ったのです。とても腑に落ちたのです。ああ、そういうことだったのかと。 3人以上であれこれ議論と言うか、ああでもないこうでもないと行き詰まった時、それまでほとんど黙っていた私がこれはこういうことじゃない?と話をまとめると、満場一致で「なるほど」と言ってもらえるケースが今まで度々あったのですが、そう言う時、私はその場の誰にも肩入れせずに全体の話をただ傍観者として聞いていたのだなと。

          究極の傍観者

          長いような、そうでないような

          最近、杖に頼らず、その上昔ながらのスピードで歩けるようになってきた。このままいけば杖を持たずに外へ出られるようになるかな、と思っている。 7年だ。足腰に何も問題がないのに杖を持っていなければ不安で外を歩けなくなってから、もう7年目に入っている。もともと、精神的負担が過多になると歩けなくなってしまう事があった。バイトの帰りなどに道で動けなくなってしまい、途方に暮れたことが何度もあった。それがついに常態化し、では動けないならどうするとなった時、杖で体を前に押し出してやれば、転ぶ

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          テレビが見られない

          我が家では食事時には必ずテレビがついている。ニュース、バラエティ、ドキュメンタリーなど、その時間に放送されている番組が流れている。それを見ながら会話をしたり感想を言ったり、家族間のコミュニケーションに役立てられている。 私はここ数ヶ月まともにテレビを見ていない。つまり、家族と食事ができないでいる。テレビが苦手になってしまったのだ。テレビ番組は、当然だけれど初めて見る映像が流れている。再放送を食事時にあえて見ることはないので。そうなると、何を聞かされるか、何を見せられるか分か

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          演劇が好きです

          お芝居が好きです。演るのも観るのも。小学校、中学校では学校行事で演劇がある度に役者をやりました。高校時代は演劇部でした。先輩がすごくて、今は数名が東京で劇団を旗揚げして自分達のお芝居を続けています。大人になってからはラジオドラマを作るサークルに何年もいました。舞台ではありませんが、演じる事には変わりはありません。 そんなこんなでずっと演じる側に関わってきたのと同様に、観る方もずっと続いています。近年はあまり生で観る機会はなくなってきましたが、それでも映像で観ています。案の定

          演劇が好きです

          舞台から流れる音楽

          普段から外出時に音楽が欠かせないタイプの人間なので、私のiPhoneには夥しい数の音楽が入っている。それをシャッフルで再生しながら外を歩いている。 長年好きなアーティストから、たまたま一曲だけ気に入って持っている曲までジャンルは様々だ。そしてその中には、舞台を通じて知ったアーティストも沢山いる。特に、バナナマンのコントライブの中で使われた楽曲がきっかけのものが最多だろう。ハナレグミ、大橋トリオ、天才バンドとか。他にもアーティスト名を調べるまでには至らないものの、いい曲だなと

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          障害というもの

          近所に住んでいるお姉さんのはなしだ。私から見たお姉さんなので、もう十分おばさんなのだけども。 同じ中学の養護学級に通っていた。脳に障害があるようで、言葉を話すことはできなかった。ただ、お相撲が好きなようで、場所中のテレビ中継の時間になると、取り組みが白熱した時などは雄叫びが聞こえてきた。その度に、我が家では「お姉ちゃん、盛り上がってるね」などと口にしたものだった。不思議と誰もうるさいとか、嫌な気分になるような者はいなかった。 それは今でも変わらず続いていたのだけれど、ここ

          障害というもの