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「住民主体」とは何か?

①まちを生きる、まちをつくる
「私たちは〝まちづくり〞はしていない。〝まちを生きている〞のだと思う」。

住民自治という時に、私はこの言葉をよく思いだす。これは、住民自治の取組みで有名な韓国ソウル市のソンミサンマウルという地域で活動する人に話を聞いた時に出てきた言葉だ。〝まちづくり〞という言葉は「まち〝を〞をつくる」という意味であり、〝まち〞を客体として、つまり〝まち〞〝自分〞を分けて捉えている。

しかし、彼らは「私たちは、〝まち〞で生活する中で必要だと思ったことを自分達でつくってきただけだ。まちを生きてきた結果が五十を超える活動になっているだけなので、私たちは〝まちづくり〞はしていないと思う」と言う。

また、文京区で地域課題を考える対話を、区民にファシリテーターを担ってもらって開催しようとした時、事前打合せでファシリテーター役の区民たちから、次のような言葉をもらった。「対話のテーマに『住民参加を活性化するには?』というのがあるが、区民の立場では、このテーマのファシリテーターはできない。住民参加というのは行政の視点の言葉で、区民の私たちがこの言葉を使うと、上から目線みたいになってしまう」。

その言葉に共感する人が多かったため、皆さんにテーマを考えてもらった。そこで出てきたのは、『文京区でどんなことをしてみたい?』だった。住民は「住民参加をする」ために動いているのではなく、「地域というフィールドで自分のしたいことをする」ために動いているのだと気づかされた。

「住民参加」と同様に「住民主体」という言葉も行政や専門職の用語だ。地域で生活し、動いているのは住民一人ひとりで、住民が生活する地域を支えるのが行政や専門職の役割だったはずだが、行政や専門職による「地域づくり」が先行してしまっている。それは、様々な分野の高度化、専門化が進む中で、行政の俯瞰的な視点や調整力、専門職の専門性、多様な社会サービスへの需要が求められてきたからだろう。

近代化とは、もともと地域内で住民が担っていた機能や役割を行政や専門職へと外部化してきたことだと言うことができる。つまり「まちを生きる」人だけではできないことを、「まちをつくる」人たちに委ねてきたのだ。

東京神田の町会長が、このように話してくれた。

「コミュニティづくりが大切だと考えるなら、区役所の人員を半分以下にしてはどうか。そうすれば、地域のつながりや助け合いの意味を多くの人が再発見するのではないだろうか」。

②なぜ住民主体なのか?
では、社会がますます高度化し、専門化している中で、どうして「住民主体」が地域福祉を始めとする様々な分野で重要視されるようになっているのだろうか?

まず、課題が多様化、複雑化、深刻化し、変化のスピードが速まる中で、専門的な社会サービスが限界に近づいている状況がある。行政や専門職が高度化、専門化しても、問題の変化や拡大に追いつけなくなっており、行政や専門職に任せておくだけでは、解決どころか目の前の対応も難しくなってきている。

かつては、問題は限定的だった。例えば、高齢者の人口が全体の1割で、介護を受ける人が地域の中でごく少数だった時代は専門職だけで対応できた。しかし、高齢者が人口の約3割を占める昨今、介護や支援を必要とする要介護者は2019年には650万人を超えている。要介護者は社会の主要な構成員になっている。さらに近い将来、軽度な人も含めて認知症の方が800万人になるという試算もある。行政や専門職だけでなく、もっと多くの人の力が必要になっている。

これまでは、「まちを生きる人では難しい」からこそ住民は高齢化対策を行政や専門職に委ねてきた。専門性を持たない一般住民に何ができるというのだろうか。

もはや、考え方の前提を変える必要がある。行政や専門職は、問題を抱える人が少数派だった時代に、起きた問題への対応を行ってきた。問題を自覚した人が申請し、それに対応するのが役割だ。しかし、今、様々な問題が深刻化していく中で、問題が深刻になる前に食い止める、予防や早期発見の観点が大切になっている。日常生活の中で、問題が深刻化する前に予防すること、表面化する前に早期発見すること、日常の中の小さな変化への気づきからの声かけなどは専門職では難しい。まさに「まちを生きる人」の力が必要だ。

それと共に考えなければならないのは、家庭や地域の困っている人を支える力が弱っていることだ。

家族の形が変わってきた中で、老々介護と言われる高齢者が高齢者を介護する状況、一人暮らし高齢者の病気、共働き世帯の子育てなど、世帯の単位では課題に対応しきれない状況が増えている。

また、何十年もの間に、地域のつながりは徐々に弱まってきており、地域の中で協力したり、助け合ったりすることが難しい地域が増えている。また、都市部では再開発が進み人口移動が活発になり、海外からの移住者も増えている。また、地方では限界集落が増えている。いずれも長らく続いてきた地域の姿を大きく変える状況が広がっており、これまで守られてきた地域のつながりも急速に弱まっている。「まちを生きる人」が前提としていたことが失われてきている。

このように問題は複雑に、深刻になっているのに、個々人の抱える課題に対して、専門職も、家族も、既存の地域も対応できなくなっている。それを乗り越えるには、それぞれが自分の限界を認識した上で、改めて、地域の助け合い・支え合い、住民の協力による活動の意味を見直し、「まちを生きる人」を支える多層的な仕組みを再構成しないといけない。それを踏まえて、「専門職と住民の連携の形も変化しなければ、様々な場面で社会が立ちいかなくなる」という危機感が、「住民主体」への期待につながっているのだろう。 

③問いかけて、委ねる
「住民主体」
を実現するために専門職に求められるのは、「住民が多面的に考えて〝より良い〞選択や行動を決定できる」環境を整えることだ。より良い選択や行動には、専門職の持つ専門的知見や客観的分析データ、多くの事例が不可欠であり、それを分かち合う必要がある。

専門職は「素人には難しい」と考えると情報を出さなくなりがちだが、決めるのが〝素人〞だからこそ、その人がよい決定をできるように、〝いつどの情報がなぜ大切か〞〝どう伝えたら必要な情報が伝わるのか〞、〝情報をどう使いこなせばよいか〞をサポートすることが大切になる。専門職は、自分の考える〝大切なこと〞を自分の中に閉じるのではなく、「どうすることが良いことなのか、共に考えよう」と問いかけることで、地域に開いていく必要がある。

同時に、専門職は住民の日常の生活やこれまでに培った価値観、将来への希望や不安、地域の文化などを十分に理解できていないことを自覚する必要がある。住民自身も自分に何が必要なのか自覚できていなかったり、うまく言葉にできず、口にできていなかったりする場合も多い。最初、本人が自覚できていないためにニーズとして伝えられていないことも、専門職と話し合った上で生活をしていく中で、「自分に大きな影響を与えているこれまでの価値観や習慣」「自分が本当に必要としていること」を自覚していく。

専門職は、一度の話し合いだけでなく住民との対話を継続しながら丁寧に意見を聴くことを通して、住民の生活等の状況を総合的に理解できるようになる。同時に、住民も自分の大切に思っていることを言葉にすることで自覚できるようになる。

そのような過程を経て、専門職、住民が自分の考えを言葉にして相手に伝え、お互いの意見を聴きあえる関係になることが、それ以降の対話の基盤となる。

この関係を基に、専門職は住民が自分(達)にある問題をどう捉えているのか、住民の不安、優先すること、好みなどの理解を深めていく。そこから、今後の生活や活動にどのような知識や体験が必要なのか考え、知識や経験を補っていく。そのようなやり取りが立場の異なる両者の相互理解を深めていく。

気をつけないといけないのは、相互理解が進むことと説得することを混同しないことだ。専門職の考えに住民を近づけるのではなく、専門職と住民のそれぞれの考えが相手と共鳴し合い、調和していくことが大切だ。そして、専門職は自分の考えに誘導しないためにも、一人ひとりに自分に何ができるのかを考える機会を提供し、住民が自らの判断でどうするか決定する機会を設けることが大切だ。そして、住民の決定を尊重し、両者で合意したことを確認する。

ただし、一度、決定、合意したらそれで終わりではなく、その後の状況の変化を定期的に共有、確認し続ける。「何が起きているのか、それはなぜ起きたのか」「より良い生活や地域の実現には何が必要か」を問いかけ、話し合い、決定や合意を更新していく。

そのようにして、専門職と住民はパートナーとして、住民のより良い生活を実現していく。
                    (エンパブリック代表 広石)

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