“つながらないSNS”であった思い出


昔の話をさせてください。ちょっと長いので悪しからず。


スマホを持ち始めた頃と同時に、私はTwitterを始めました。
動機は「自分が好きなものを話したいから、同じものを好きな仲間が欲しかったから」です。

始めてみると、今までとは違った全くの新しいコミュニティができました。
現実の交友関係では一向に見つからなかった仲間が、一方のこちらでは多く、そして一気に増えたんです。

それはそれはとても楽しい毎日でした。
まるで現実の友だちのように、あいさつをして共通の話やそれぞれの話をする。


人は慣れていくと段々自分を開示していきますよね。
私も、自分のことや思ったことをその場所で話したりしていました。
そうなると段々とネガティブな発言も出てきてしまうのです。

言いたくない気持ちはあるんだけど、そこにいる人たちを信頼しているためについつい吐き出す場所となりかけたのです。

しかし、ネガティブな部分を見せるのが申し訳なかったり、大好きな人たちにも言えないことや伝わらないことを、その人たちの目に晒したくないと思うようになり、私は逃げ道として“つながらないSNS”というものを始めます。

そこはつながるという概念が存在せず、反応(リアクションやリプライ)だけができるSNSでした。気楽な壁打ち感覚で、側から見たらしょーもない愚痴や悲観を垂れ流していました。




前提があるのですが、別の投稿にもあるように、私は流行が好きではありません。できれは触れたくない程に。
そんな世間や流行に対して天邪鬼な私はある日、
「みんなと違う自分が格好いいと思ってんだろ。ブルーハーツが好きなのも、みんなと違う自分が好きなだけだろ。」
と兄弟から言われます。

その言葉を聞いて、私は酷く傷つきます。
確かに私は厨二病が抜けていないので、天邪鬼な自分が好きだったことを否定しません。それを見ていた兄弟はそのような私に何か思うことがあったのか、それとも何も考えずに思ったことを言ったのか、それはわかりません。
しかし私にとって問題だったのは『純粋に好きだったものを馬鹿にされたこと』です。

天邪鬼でみんなが好きそうなものを嫌いと言っていましたが、それとは全く関係なしに、私がブルーハーツを好きな気持ちは本物だったからです。
その瞬間は頭を強く打ったような感覚を受けました。

私も上手に言い表せられないのですが、その悲しさや怒りをどうにかしようと、私は吐き溜めとしていた“つながらないSNS”に言われた言葉を吐き出します。


すると間もなくしてリプライが来ました。
明確な内容は忘れてしまったのですが、その時の私に追い討ちをかけるような言葉でした。

半泣きになりながらも私はそのリプライに「そうですよね。だけど、好きなもの自体を馬鹿にされたような気持ちをわかってほしかっただけなんです。」と返事をしました。
そしてまたリプライが返ってきました。その言葉は今でも覚えています。



「そっか、ごめんな。でもブルハが好きな人間ならそんな弱い人間になるな。俺もブルハが好きだから、仲間がそんな風になってほしくなかったんだ。」


もう、ギャン泣きですよ。この言葉に当時の私は確かに救われたんです。
今も泣きそう。




しばらくして私は、そのSNSを辞めてしまいます。
悲観や愚痴で溢れかえる場所だったので、それに引っ張られて病んでいるような心情が続いたからです。自衛のためでした。


結局Twitterに完全帰還した私は、今でもツイ廃生活を謳歌しています。
初めに生まれたコミュニティの仲間たちが好きなのでね。

数年経った今、その“つながらないSNS”はまだ主観的で閉鎖的な考え方で溢れている場所のままでした。
一つ違ったのは、リプライ機能が廃止されていたこと。

この事実はとても悲しかった。

リプライでのあの言葉があったからこそ、もし少しでも明るい場所になっていたのなら戻りたいなと思っていました。だけど私はきっと、金輪際、この場所には戻らないのだろうと思いながら、その“つながらないSNS”のアプリを削除しました。




この世には数え切れないほどのSNSが存在しています。
そしてほとんどの人が、そのどれかのユーザーだったりします。

その場所がその人にとってどのような場所になるかは様々です。サービスの世界観、運営、ユーザーの雰囲気、個人の使い方などなどによってそれは色を変えます。


最後に、関係ないようで関係ありそうな言葉を思い出したので書いておきます。

本の受け売りですが、「人はどれほど人間不信になっても、人とのつながりを求めずにはいられない。」だそうです。

自分が素直に、楽しく人と関われる場所ができると一番嬉しいですね。


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