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つい書き留めてしまった言葉たち

ずいぶん年をとったアイヌが二人、小舟をこいでいる情景を見たときは、つくづく感心しました。背中をかがめて、ゆっくりゆっくり舟をこいでいる。世の中に神様というものがいるとすれば、あんな姿をしているのだな。ー熊谷守一

今の日本てものは、本当に僕らが生まれてから体験した中でこんな腐った日本はない。日本人ってことを忘れてんじゃないかみんな。中国はなんだかんだ中国らしいとこをもっている。朝鮮や韓国へ行っても、そこに何か朝鮮らしい韓国らしいとこをもってる。今の日本で、本当の日本人だって言って威張れる人が何人いるだろうね。ー桂枝太郎

物を持てば持つほど、人間の顔は暗くなってくる。ー中村哲

一体日本人は生きるということをしているのだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一生懸命に此学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて、職業にありつくと、その職業をなし遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。現在は過去と未来その間に画した一線である、この一線の上に生活が無くては、生活は何処にも無いのである。ー森鷗外(青年)

文学は糊口の為になすべき物ならず、おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ、いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に、商ひといふ事はじめばや、もとより桜かざして あそびたる大宮人のまとゐなどは、昨日のはるの夢とわすれて、志賀の都のふりにしことを言はず、さゞなみならぬ波銭小銭、厘か毛なる利はもとめんとす。ー樋口一葉(日記)

現代は優れた作品よりもひどい作品のほうが経済的報酬をずっと多く得る時代だ。ーフラナリー・オコナー(秘義と習俗)

真実とは、かなりな犠牲を払ってでもわれわれが立ち戻るべき何かである、という考えは、気まぐれな読者にはなかなか理解されない。ーフラナリー・オコナー(秘義と習俗)

最近の大方の短歌は暗く貧しく又は逃避的であり装飾的であり或るひは短歌を武器として振りかざすことによつて不安な現代からの訣別を免れようとしてゐる。短歌の方向を自ら制限してゐる。「歌ひたいからうたふのだ。」といふのびやかさや、「歌はずに居られぬ。」という必然性が欠乏してゐると思ふ。ー中城ふみ子(不幸の確信)

現代短歌の酷薄な「存在證明書」の空白の裏面に新しいただ一行の眞實を書き加えるために僕は明日も獨り生きよう。その暗い情熱の源泉はただ短歌への限りない憎惡、それのみである。ー塚本邦雄(裝飾樂句)

純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である。ー萩原朔太郎(与謝蕪村)

昔の文士って皆そうだったけどね、どこか毒を持っていた。文士っていうのは無頼の徒だったんだ。今は皆、勤め人みたいになっちゃったけどね。昔は中上健次みたいなのがいたけど、この頃は人に絡まなくなっただろう。味気ないですよ。勘違いや思い違いをするからこそ、人間って膨らんでいくんです。作家なんかも、他人が持ってる情報に頼って物書いてるからサラリーマンみたいになるんだ。変にマーケティングするんだよ。芥川賞の選考会をやってて一番嫌なのは、選考委員ってのは、文壇一筋で来た人たちでしょう。そうすると、変によく知ってるんだ。僕はもうそんなに文壇にいるわけじゃないから、一期一会で、その作品についてしか評価しないんだけど、「この子はだいぶ巧くなってきた」とか、「そろそろ獲らせていいんじゃないか」とか、どこかでマーケティングしたような話が出る。ー石原慎太郎(西村賢太との対談にて)

日本とは、日本それ自体の国であって、そっくりそれを受け容れるか拒否する以外にない。ーアンドレ・マルロー

日本とは連綿たる一個の超越性である。ーアンドレ・マルロー

人間は誰しも気狂いなんだよ。だが、この気狂いと宇宙を結びつける努力が人間の運命じゃないだろうか。ーアンドレ・マルロー(人間の条件)

人間って奴は気の狂った時には決して自殺しないものーアンドレ・マルロー(人間の条件)

「葉隠」は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終ったあとで、かえってわたしの中で光を放ち出した。「葉隠」は本来そのような逆説的な本であるかもしれない。戦争中の「葉隠」は、いわば光の中に置かれた発光体であったが、それがほんとうに光を放つのは闇の中だったのである。ー三島由紀夫(葉隠入門)

現代は、生き延びることにすべての前提がかかっている時代である。平均寿命は史上かつてないほどに延び、われわれの前には単調な人生のプランが描かれている。青年がいわゆるマイホーム主義によって、自分の小さな巣を見つけることに努力しているうちはまだしも、いったん巣が見つかると、その先には何もない。あるのはそろばんではじかれた退職金の金額と、労働ができなくなったときの、静かな退職後の、老後の生活だけである。このようなイメージは福祉国家の背後には、つねに横たわって人々の心を脅かしている。ー三島由紀夫(葉隠入門)

このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。ー三島由紀夫

夢を欲すとはその人が最も夢に乏しき素質の表白なり。ー山田風太郎(戦中派虫けら日記)

過去の日本の教育に関して、もう一つ痛恨の念に耐えないのは、それが各自の個性を尊重しなかった点である、頭を出せばこれを打つ。少し異なった道へ歩もうとすればこれを追い出す。かくて個人個人には全く独立独歩の筋金の入らないドングリの大群のごとき日本人が鋳出された。ー山田風太郎(戦中派不戦日記)

戦争中の日本は、偏していたかもしれないが、少なくともまじめであった。敗戦後の日本はこの最後の徳さえ失ってしまった。この数日、十数日、日本に乱舞しているのはー僕は言論のことをいうのだがただ軽薄の一語につきる。いい大人が汗水たらして軽薄のかぎりをつくしている。ー山田風太郎(戦中派不戦日記)

生き残っている人は自分を含めてみな悪人である。ほかの心やさしい人を蹴落とすことによって、自分が生き延びてきたのですから。ー五木寛之(自力と他力)

運命の方向は人間の目にもう最期と見える究極から転機するものだ。ー吉川英治(新書太閤記)

子供というものは、自分を改めるのになんのためらいももたない。ー吉川英治(宮本武蔵)

近頃人間は怒らぬことをもって、知識人であるとしたり、人格の奥深さだと見せかけておる。怒ってみなけりゃ本当の生命力も、人間の味も出ては来ぬ。/お前の怒りはまだ弱い、それは私憤だから弱い。公憤でなければならん。ただ我のみの小さな感情で怒るのは、女の怒りというもだ。ー吉川英治(宮本武蔵)

理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。ー中島敦(山月記)

注意とは思考を停止させ、無欲で純粋な待機状態になることである。ーシモーヌ・ヴェイユ

自立とは、結婚とか独り暮らしとか、そういうことではないのだ。全然違う。結婚して家を出ていて子供がいても親の影を背負っている人を大勢見た。それが悪いということはないけれど、とにかく自立ではないのだと思う。ー吉本 ばなな(とかげ)

われわれの多くは、「にせ」の現実に適応するため「にせ」の自己を獲得することに成功しすぎている。ーR.D.レイン(引き裂かれた自己)

アメリカ人はヨーロッパ人より皮相的で、金を自由に使い、より親しみやすく、自己および自分の価値について不確実であり、ヨーロッパよりも是認をより強く要求している。/他人志向の性格の分析は、かくてアメリカ人の分析でもある、と同時にまた、現代人の分析でもある。ーリースマン(孤独なる群集)

外部の世界及び自己との関係はマス・コミュニケーションの流れによって媒介される。
他人型志向にとって、政治的事件は擬人化された言葉のスクリーンを通って経験される。/親は子供をして内的規準を破ったことよりも、人気者となることに失敗するか、他の子供達との関係をうまくやってゆくことに失敗することに罪の自覚を感ぜしめるようになる。更に学校および同輩集団の圧力はマスメディア(映画、ラジオ、漫画、通俗文化媒体)によって矛盾した方式に従って強化、持続させられる。ーリースマン(孤独なる群集)

自立することは、依存を排除することではなく、必要な存在を受けいれ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。自立しているものこそお互いに接触し頼るべき時は頼って生きているが十分に自立していない人間は、他人に頼ったり、交際したりするのを怖がる。ー河合隼雄

夢も本来共有のものであった。ー柳田国男(遠野物語)

狂気なしでは理性は存在しえない。ーミシェル・フーコー(狂人の歴史)

われわれは、この「より無価値なもの」にこそ問いかけねばならないのである。ーミシェル・フーコー(狂人の歴史)

精神病をつくりだしている澄みきった世界では、もはや現代人は狂人と交流してはいけない。すなわち、一方には理性の人が存在し、狂気にむかって医師を派遣し、病気という抽象的な普遍性をとおしてしか関係を認めない。他方には狂気の人が存在し、やはり同じく抽象的な理性、つまり秩序・身体的で精神的な拘束・集団による無名の圧力・順応性の要求たる理性を介してしか理性の人と交流をもたない。両者のあいだには共通な言語は存在しない、むしろもはや存在しないのである。十八世紀に狂気が精神病として制定されてしまうと、両者の対話の途絶は確定事実にされ、区別は既成事実になり、狂気と理性の交換がいとなまれていたところの、一定の統辞法を欠く、つぶやき気味のあの不完全な言葉のすべてが忘却の淵にしずめられた。ーミシェル・フーコー(狂人の歴史)

人間は一秒、一秒、死んで行ってるのよ。今、何かやらなきゃ、命が勿体ないじゃないのさ。ー丸山明広(紫の履歴書)

よく芸能界でも様々な賞があり、それを欲しがる人も多いが、私は本当に負け惜しみではなく、そんなものは欲しくない。不正直な人が、くれる人爵よりも、正直な神々がくださる無冠の神爵の方が、より有難い。私はこの世を卒業するとき、いままでお世話になった自分自身に、決してそういう意味で、情けない思いはさせたくないと思っている。ー丸山明宏(紫の履歴書)

日本はフランスと違って、父母が子供を保護過剰で育てるので、いつまで経っても、年をとっていても頭の中で性情が子供のままなのです。フランスのように、子供の頃から一人前の紳士淑女としては扱われないのです。ですから、いろいろとそういう生活の中に、子供のような考えが巣食っているのです。ー丸山明宏(紫の履歴書)

いまの若い人たちは、アメリカ流のドライな割り切りかたで、「義理」をあまり重視しない。しかし彼らは同時に、アメリカの社会を支えている「個人の自由意志にもとづく強烈な責任感」をも、あまり重視しない。というよりは、そういった責任感こそアメリカ人のバックボーンであることさえ知らないのではあるまいか。ー小西甚一

日本はなんで新国学をやらないのか。/今の日本ではこういうことを言うとすぐ右翼だとかナショナリストだとか思われてしまうんですが、いまや各国の潮流が国学というものに向かっているのに日本はなぜかそんなことにも気が付いていない。ー松岡正剛(連塾ー方法日本)

それにしても日本にはいまだに「武士道」とか「葉隠」のようなものをとりあげると、国粋的だという捉え方をする人がいます。アホかと思いますね。なぜこういうことになっているかというと、そもそも国粋的な日本というものを、誰もちゃんと食べようとしていないのです。ー松岡正剛(連塾ー方法日本)

私がしきりと画きたいもの、また画いておきたいものは、昭和のなかばまで続いてきた市人のおだやかな暮らし、それはもう二度とめぐって来ないようにさえ思われるのを心ゆくまで写しとどめたく願う心にほかならぬ。ー鏑木清方

能の作者は神秘的な存在になってゆく。能は、作ったものではない、自然と生まれ出たものである。そうして生まれでたものと同様の生命と進化力をもっている。能は作者の有無に関わらず、日本民族最高の表現欲が生み出したものである。ー夢野久作(能とは何か)

能の表現は、写実を捨て象徴へ、俗受けを捨て純真へ、華麗から率直へ、最高の芸術的良心の表現へ、透徹した生命の躍動へと進化してゆく。ただ一気に生命本源へ突貫してゆく芸術となった。ー夢野久作(能とは何か)


人は自分で神を創り出し、それに隷属する。ーアナトール・フランス

動物はただ一重の単純な生活を送るだけであるのに、人間は二重の生活を強いられる。ーフォイエルバッハ

国家とは観念(幻想の共同体)である。ーヘーゲル

私はいやしい。不誠実で良心のない愚鈍な人間である。しかし、貨幣があがめられるので、その持ち主である私もまたあがめられるのである。ーカール・マルクス

私はスターリンではない。新聞に載っているスターリン、肖像画に描かれているスターリン、それがスターリンなのだ。-ヨシフ・スターリン

おれは百万人の胸の内から生まれたお化けなのだ。ーアル・カポーネ


数学というものは、形式と量の科学なんだ。つまり、数学的推理とは、単に形式と量とに関してなされた観察にのみ通用しうる論理にすぎない。ーアラン・エドガー・ポー(奪われた手紙)

数学者というやつはね、一種の習慣からだろうが、この有限的真理をもってあたかもそれが、絶対普遍の通用性でも持っているかのように論じるのだし、世間もまたそう考えるんだねえ。ーアラン・エドガー・ポー(奪われた手紙)

いのちの一瞬の後に追われる者は、何者を佯り隠すところなし。ーアラン・エドガー・ポー(群衆の人)

上手と言われる人間は常に空想的であり、真に想像的な人間は必ず分析的であるーアラン・エドガー・ポー(モルグ街の殺人事件)

良心も臆病も、もとを糺せば同じものだ。ーオスカー・ワイルド(ドリアン・グレイの肖像)

博愛心に富む人間は人道的なセンスをまったく欠いています。それが彼らの第一の特色でしょう。ーオスカー・ワイルド(ドリアン・グレイの肖像)

他人のことを良く思いたがるのは、じつは自分のことが心配だからだ。楽天主義の根底にあるものは単なる恐怖だ。ーオスカー・ワイルド(ドリアン・グレイの肖像)

いつまでも若さを保つ秘訣は、けっして不似合いな感情を抱かないでいることだ。ーオスカー・ワイルド(ドリアン・グレイの肖像)

人生は意志や意図で支配されているのではない。人生とは、神経と繊維組織、そして徐々に形成される細胞の問題であり、これら神経や細胞のなかに想念が身を潜ませ、情熱が夢見るのだ。ーオスカー・ワイルド(ドリアン・グレイの肖像)

言葉というものは実行の熱を冷ますだけだ。ーシェイクスピア(マクベス)

ああ、女のように眼を泣きはらし、口先だけで大口をたたけたら、どんなに気楽か。ーシェイクスピア(マクベス)

不自然な行為は不自然な煩いを生むのだ。ーシェイクスピア(マクベス)

女の子だからといって、甘やかし過ぎはいけないですよ。ーモーパッサン(女の一生)

名文句は一度口にされてから何世紀もたたなければものの役に立たん。それも役者が使うだけさ。ージャン・ジロドゥ(ユディット)

どういうものか、死んだ人の話になると生きてる人たちは急にエゴイストになって近眼になってしまいますわ。ージャン・ジロドゥ(間奏曲)

オンディーヌ「あたしみんなわかってしまったわ。人間が嘘つきで、綺麗なものが汚くて、勇気のある人が卑怯だってことが。あたし、そんなのって大嫌い!」
騎士「ところが、相手はお前を好きになる」
ージャン・ジロドゥ(オンディーヌ)

男たちが一番嫌うこと。透き通っていること。男たちはそれが一番怖いんだよ。ージャン・ジロドゥ(オンディーヌ)

人間たちが真実のもの、素朴なもの、貴重なものにぶつかったとき、やつらは急に論理的になる、己を低くすることなんてしなくなる。ージャン・ジロドゥ(オンディーヌ)

世界の涙の総量は不変だ。誰か一人が泣きだすたびに、どこかで誰かが泣きやんでいる。ーサミュエル・ベケット(ゴドーを待ちながら)

みんなのやさしさに泣いてはいけません。それだけ、あなたは弱くなります。ー別役実(赤い鳥のいる風景)

理解できないものから身を護るのには服を着る方がいいように思えるの。ージュール・シュペルヴィエル(セーヌ河の名なし女)

人は生をやり直すことはできない。生きた波動は、永久に固定されたある数の振動のなかに記憶され、それ以後は死んだ波動となる。映画の世界は閉ざされた世界であり、実存とは何の関係もない。ーアントナン・アルトー(貝殻と僧侶)

演劇がその辺のでくの坊たちの個人生活の中にわれわれを引きづりこむことしかせず、観客をのぞき常習犯にかえている限り、大衆の大部分が映画館や、ミュージックホールやサーカスへ、荒っぽい満足を求めに出掛けるのは当たり前である。われわれの感受性の摩滅がここまで来ては、なによりもまず、われわれの神経も心も、呼び覚ましてくれるような演劇が必要なことは確かである。ーアントナン・アルトー(演劇とその形而上学)

言葉は口にされてしまったら、それで死ぬ。口にされているその時だけしか効力を持たない。一度使われてしまった形式は、もう役にたたない。そして、演劇は、世界中で、一つの動作が行われたら、それが二度と繰り返されないただ一つの場所なのである。ーアントナン・アルトー(演劇とその形而上学)

ペストがなぜ逃れようとする臆病者にうつり、死体を弄ぶ好色漢たちを見逃すかは誰にも言えまい。ーアントナン・アルトー(演劇とその形而上学)

どこかの精神病院の一人の狂人のはけ口のない絶望と叫びが、ペストの原因となることが不可能でないのと同様、感情と幻影の一種の転換生によって、下界の事件、政治的衝突、自然の異変、革命の秩序と戦争の無秩序などが、演劇に移って、それをながめる人の感受性の中で、伝染病のような力をもって放電することも認められるだろう。ーアントナン・アルトー(演劇とその形而上学)

演劇はまたペストと同様、死ぬか全快するかによって終わる危機である。ペストは最高の病気だ。なぜなら、後に、死か、極端な浄化しか残さない完璧な均衡なのだ。ーアントナン・アルトー(演劇とその形而上学)

狂人とは社会がその言葉を耳にしたくなかった人間で、社会はその人間が耐え難い真実を口にするのを阻もうとしたのです。ーアントナン・アルトー(ヴァン・ゴッホ)

つまり、地球上の生命の運動はこの回転と歩調は合わせはするが、その運動のすがたは旋回する地球ではなく、雌を貫通し、そして再びそこへ戻るべくそのなかかからほとんどすっかり抜け出しつつある男根である。ージョルジュ・バタイユ(太陽肛門)

文学とは霊的交通である。霊的交通は誠実さを要求する。ージョルジュ・バタイユ(文学と悪)

悪のなかには、つねに極悪にむかうひとつのずれがあるので、それどうしても苦悩と嫌悪感とを掻き立てるのである。そうはいうものの、無欲な死への誘いという面から見た悪は、やはり、自己本位な利害しか求めない悪とは根本的に異なるのである。「いやしい」犯罪は、「情熱的な」犯罪と対立する。ージョルジュ・バタイユ(文学と悪)

自由とは、行動という強制命令にまきこまれているおとなには、単なる夢想、欲望、強迫観念でしかないものなのではないだろうか。ージョルジュ・バタイユ(文学と悪)

本質的には、社会は、その社会の力をたより生きている個人たちの弱みにつけこんで、その上に基礎づけられている。ージョルジュ・バタイユ(文学と悪)

他の人間にとってこの世はまっとうなものに思われる。まっとうな人間にはそれはまっとうに見えるのだ。なぜなら連中は去勢された眼をしているからだ。ージョルジュ・バタイユ(文学と悪)

なにものも、さまざまの反対物を媒介とするのでなければ、進歩することはない。引力と斥力と、理性と精力と、愛と憎とは人間存在に不可欠なものである。これらの反対物から、諸宗教のいわゆる善と悪が生まれる。善とは、理性に隷属させられた受動的なものであり、悪とは、精力から生まれる能動的なものである。神は、自分自身の精力に奉仕する人間を、永遠に、責めさいなむであろう。/精力こそは、唯一の生である。それは、肉に属する。理性は、精力をとりかこむ限界もしくは枠である。ーウィリアムブレイク(天国と地獄との結婚)

されば死すべき人の身は、はるかにかの最期の日の見きわめを待て。何らの苦しみにもあわずして、この世のきわに至るまでは、何びとをも幸福とは呼ぶなかれ。ーソポクレス(オイディプス王)

『作者によってこしらえられた発見』『記憶を媒介として行なわれる発見』『推論から結果する発見』等々。いずれも、『発見』をもたらす機縁となるものが外的で偶然的であるほど、技法的であり、下手な作家はとかくそのような、とってつけたような『発見』の仕方を窮余の策として用いる。ーアリストテレス

作家にとって生きることと書くことは一つであるべきだ。ープラトン

作家は神がかりの状態において作品をつくる。彼らは、自分が語っている事柄を何ひとつ知ってはいない。ープラトン

まあ考えてごらん、罪を意識してる人間が、どっちを向いても嘘をついたり、ごまかしたりして、自分を偽らなきゃなんないかをね。あいつは自分の一番近しいものの前でも、たとえば自分の細君や子供たちの前でさえ、仮面をつけてなきゃいけないんだ。そんなような家では、子供が息をするたびに、何かしら悪いことの芽を吸い込んでしまうもんだよ。ーヘンリック・イプセン(人形の家)

過ぎ去る時間とは失われた時間であり、怠惰と無気力の時間であり、いくたびも誓いを立てても守らない時間であり、しばしば引越しをし、絶えず金の工面に奔走する時間である。ージャンポール・サルトル(ボードレール)

待っていれば奇跡は必ず起こった。ージャン・コクトー(恐るべき子供たち)

理解しようとするな、信じるんだ。ージャン・コクトー(オルフェ)

人生は長い死だ、人の記憶と信念の残骸が眠る、生と死の境界にいる。死は老若男女に姿を変えて、下された命令を実行するだけだ。ージャン・コクトー(オルフェ)

自分の信念を証明する為に生命の危険をもかける。ーチェ・ゲバラ

道徳とは脳髄の衰弱だ。ーアルチュール・ランボー(地獄の季節)

悪徳が見られなくなると、ひとしく美徳はほとんど姿を消してしまう。魂の活気は鈍り、やがて革命が準備される。ーマルキ・ド・サド(悪徳の栄え)


法律による限り、人間はますます狡猾ますます悪辣になるばかりであって、けっして善良になどはならないものだ。ーマルキ・ド・サド(悪徳の栄え)

きわめて多くの場合、偉大な行為は罪と一致するのだ。ーマルキ・ド・サド(悪徳の栄え)

神などという、こんな憎むべき出鱈目を最初に言い出したペテン師は、罰として、神のために死んだすべての不幸な人間の霊魂に、生きながら取り憑かれてしまえばよかった。ーマルキ・ド・サド(悪徳の栄え)

大鳥は綱領のない革命だ。ー寺山修司

母を殺したときから青年の自立が始まる。ー寺山修司

私たちにとってヨーロッパとは一体何だったのだろう。アメリカはコカコーラであり泥足でふみこんできた暴力カウボーイであり、我慢ならない星成金の征服者であり、肉体であり、国家形態の永遠の実験であり、癌を内包する大峡谷であり、ポップ・ホープのくわえた葉巻のけむりをベトナムの空じゅうまき散らすお人好しの犯罪者であった。だが、ヨーロッパは?/成熟した老人たちの文明、そしていまも終末の墓から呼び出されるのを待っている、西欧の都市の区画されたコンクリートの上に、私たちは「無人島」を構想する。ー寺山修司(人力飛行機ソロモン)

さしあたってのわれわれの関心は、「観客」という、虚構を鑑賞しにやってくる人々ではなく、日常の現実原則の中で、虚構を排除しようとしている市民なのである。彼らは「都市の構造と劇場の中の幻想空間とがアナロジーの関係にある」ことに気付いていない。ましてその「劇場」が施設ではなく状況を差し示す用語であることなどもまったく無関心なのである。ー寺山修司(人力飛行機ソロモン)

今日、文学作品の中にさえ命の危険をかけてまで「言わねばならぬ」ことを持った作者を何人探すことができるであろうか?
そして、それらの作品に自らの名を著さねばならぬほどの自分個人の内的責任を負った文学作品が今日の文学を形成しているだろうか?ー寺山修司(思想への望郷)

君は、みよ、一匹の蛆のように素裸だ。君の流儀を投げ捨てろ、もはや傲慢にふるまう時ではない。君の罪にみちた生活のいかにささいな動きでも、じっと見ている者がいるのだ。君は、彼の鋭くしつような追求の、細かい網につつまれている。ーロートレアモン(マルドールの歌)

光栄はひとりでに成るものではない。征服者の足下にそれが産まれ、それが差出されるには、血を、それも夥しい血を流さねばならない。正しくも大殺戮が行われた平原に、るいるいたる死体、散乱した四肢を見ずしては戦いはなく、戦いなくして勝利はない。人がひとたびすぐれた者たらんと欲するなら、肉弾性のためにふんだんに流される血潮の流れに、ゆうゆうと身を浸さなければならないことが分かるだろう。目的は手段を選ばない。ーロートレアモン(マルドールの歌)

人間はどんなに打ちのめされ虐げられても、人間固有の美しさや強さを失うことはない。強く圧迫され辱められるほど、それだけいつかは強い奔流となって美しい人間らしい感情を流露させるものだ。ーマクシム・ゴーリキー(母)

世間の人には向こう見ずに話さないようにしておくれ。世間の人には気を付けなくちゃいけない、みんな憎しみあっているんだからね。みんな欲と妬みで生きているんだよ。意地悪をして喜んでいるんだよ。お前がその人たちの正体を暴きたてて非難し始めたらお前は憎まれて酷い目にあうよ。ーマクシム・ゴーリキー(母)

人間は自分の作り出した物の奴隷となり、それらによって骨抜きにされてしまった。
お前は自分の主人だ。ーマクシム・ゴーリキー(チェルカッシ)

みんなもっと大きく目を開いて、昔のことをよく眺めてみるんだね。そうすればそこですべての謎を解くカギがみつかるだろうよ。ーマクシム・ゴーリキー(イゼルギリ婆さん)

今の世の人たちは、本当の暮らしをしていない。みんなただ生活の真似ごとをしているだけだ。そんな真似ごとのために一生を棒に振ってしまうんだ。そんな風にして無駄な日々を送って、自分で自分をごまかしきれなくなった時に運命を嘆くのさ。ーマクシム・ゴーリキー(イゼルギリ婆さん)

幸福は現にわれわれにもないし、またそのへんに転がっているものでもない。ただ願い求めるだけのことですよ。ーアントン・チェーホフ(三人姉妹)

ひょっとすると、僕は理性を失った病人かもしれない。正常で健康な人は、見たり聞いたりする一切のことを理解しているつもりですが、僕はこの「つもり」というやつを見事なくしてしまったために、来る日も来る日も恐怖に中毒しているのです。ーアントン・チェーホフ(恐怖)

僕はいっそ何も考えないために仕事で気をまぎらし、夜ぐっすり眠るためにわざわざ疲れようと努力しているのだ。
僕がこの人生でどんなとんまな役割を演じてきたか、君にお話しできたらなあ!ーアントン・チェーホフ(恐怖)

監獄や精神病院が現に存在する以上、誰かがそこにはいっていなければならない。ーアントン・チェーホフ(六号室)

一番大事なことは生活の方向を変えることで、後のことはたいしたことではない。ーアントン・チェーホフ(いいなずけ)

生きていくことは並大抵のものではないわ。この世には何一つ偶然なものはなくあらゆる事柄がそれぞれ独自の目的を持っていることを思い出さなければいけないわ。ーアントン・チェーホフ(知人の家で)

もし人生に意義や目的があるならば、その意義や目的はけっしてわれわれの幸福のなかにはなくて、何かもっと賢明な、偉大なもののなかにあるのです。ーアントン・チェーホフ(すぐり)

ほんのしばらくでも女のそばを離れることがあれば、それは数々の栄誉を身に帯びていっそう愛される資格を得るがために他ならない。ースタンダール(赤と黒)

言葉は考えを隠すために与えられた。ースタンダール(赤と黒)

告白もの以外に興味はないですな。そういう物を書くやつはまず告白しないために、自分が知っていることについてはなにひとつ口を割らないために書く。やつらがこれから打ち明けると称するときこそ、眉唾ものですよ、死骸を粉飾しようとしているんですから。ーアルベール・カミュ(転落)

こうした事件を唯一の合理的な神、つまり偶然のせいにしましたがね。/唯一の合理的な神は偶然である。ーアルベール・カミュ(転落)

事実、女ってものは、みんなが失敗したのに自分だけは成功したと思い込むナポレオンと共通点がありますよ。(転落)

神々と肩を並べるには、たった一つのやり方しかない。神々と同じように残酷になることだ。ーアルベール・カミュ(カリギュラ)

労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働をのりこえる、その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。ー安部公房(砂の女)

文学上の作品に必ずしも誰も動かされない。彼の作品の訴えるものは、彼に近い生涯を送った、彼に近い人々の他にあるはずはない。ー芥川龍之介(或阿呆の一生)

親子や夫婦などというのはことごとく互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにしている。特に家族制度というものはばかげている。ー芥川龍之介(河童)

もし、理性に終始するとすれば、我々は当然、我々自身の存在を否定しなければならない。ー芥川龍之介(河童)

雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。ー夏目漱石(草枕)

人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。ー夏目漱石(草枕)

心のうちでありがたいと恩に着るのは金銭で買える返礼じゃない。無位無官でも一人前の自立した人間だ。自立した人間が頭を下げるのは百万両より尊い返礼と思わなければならない。ー夏目漱石(坊ちゃん)

現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾にしようとつとめてきたか。ー永井荷風(日和下駄)

万葉の頃などまでは、なほねんごろなる心ざしを述ぶるばかりにて、あながちに姿言葉を選ばざりけるにやと見えたり。ー鴨長明(無名抄)


前に生まれん者は後を導き、後に生れん者は前を訪えー親鸞(教行信証)

悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をやー親鸞(歎異抄)

ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係な“なにか”じゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。そこにはおそらく太陽もなく、月もなく、方向もなく、ある場合にはまっとうな時間さえない。そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ。ー村上春樹(海辺のカフカ)

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