正しく怖がること、「大丈夫」だということ

最近起きた、沢山の心の問題の中から、自分の心の何が問題だったかを考える。1つは「承認欲求の塊だ」と罵られた事について。その時に起きた心の問題って、罵られた事への不快感だろうか? 承認欲求がと言われて図星だった事だろうか?

いいや、それは、承認欲求が膨れ上がってしまう恐怖、ひとりになる恐怖だ。

これは一口に心の問題とは呼べないものもあるので注意が必要だが、多くの心の問題に潜んでいるのは、恐怖や不安、寂しさで、怒りや悲しみは二次的な感情にすぎない。

恐怖と心の傷によって、心の受け皿が壊れてしまい、受け入れられる体制が壊れてしまっていた。
だから、意味のある言葉すら怖くなり、歌も嫌になって、でも無音はそれこそ余計な事を考えてしまうから、眠れなくなってしまっていた。
YouTubeで無料の睡眠用BGMを探して、それを聴きながら寝ようとするも、誰に対してでも何に対してでもない無意味な不安や怒りを感じるまでに心が疲れていた。

まずは今起きていることを受け入れよう。怖くないよ。
(トラウマ経験がないのに)水が怖いという気持ちがあったって、ただプールに足を突っ込むだけだったら、そこから無理矢理引きずり下ろされて溺れさせられるはよっぽどない。
ちなみに、ファイナルディスティネーションというスプラッター映画では、プールの排水溝が急に開いて人が引きずり込まれるシーンがあるが、あんな事は現実には起きない。
現実味のない事、すぐに起きるかと言われたら起きないような事に気を取られず、今目の前にある事を、まずは受け入れよう。
「大丈夫」という言葉は、その一歩のためにある。

こうして今日も、睡眠用BGMに耳を澄ませて、温かい布団に潜って、目の前の温もりを感じ、目を閉じる……。

という所まで書いて、昨晩は寝てしまっていた。


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