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今もライブのことが解らないでいる

8月後半に見たライブ2つのことを、とりとめもなく記録しています。そのつもりで、お付き合いください。

①STOMP 2023 (東急シアターオーブ)

STOMP(ストンプ)は、イギリス発のライブパフォーマンス。

バケツ、ブラシ、ビニール袋など、日常品を叩いたり膨らませて、音を鳴らし、それをパーカッションにして演奏するショーだ。昔から評判は聞いていたが、今回初めて、生で見た。

素晴らしかった。100分間、一言のセリフもない。演奏はするが、メロディもない。ただひたすらパーカッションのみ。それなのに、ずっと引き込まれるし、あの手この手で、趣向を凝らして、飽きさせない。

生で見る価値が、とても高いショーだと感じた。(正直、事前に映像で見ていた段階では、曲芸としてはすばらしいとは思ったものの、ショーとしての見応えには気づいていなかった)生で見て、初めて、世界で称賛される理由が分かった。目の前にある物質が、実際に音を鳴らして響く様を見てこそのパフォーマンスだと思う。

セリフはないのだが、コメディ的な側面もあり、人と人の微妙な間や、すれ違いのおかしみを、表情と動きだけで表現していた。(この魅力を見ていない人に言葉で説明するのは、本当に難しい)これも生でなければ、立ち消えてしまうような、微妙なニュアンスで表現されていた。

説明のために、YouTubeのCMにリンクを張ってはみたが、これを見ても本当の魅力は伝わらないだろう。少しでも関心が湧いたら、次の機会は、ぜひ生で観てみてほしい。

まだライブの魅力を捉えきれていない

学生時代、私は小劇団で、脚本を書いたり、演出をしたりしていたが、けっきょく最後まで「ライブの魅力」を、演出に活かすことはできなかった気がする。ライブだからこそできる演出にも取り組んだが、本質にはついに迫れなかった。

いま思えば、観客としての体験の量も不足していたのだろう。自身もテレビや映画を見て育ち、それに比べて、ライブの視聴回数は全く少ない。ライブは得意ではなかった。

発信者としての感覚としても、当時「一度きりの上演になってしまい、再配布できないエンタメを作り続けるのは、正直しんどいな。費用対効果をもっと上げたい」と思って、職業選択の段階では、ゲーム開発に進路を切り替えてしまった。当時、私が住んでいた京都の街は小劇団や劇場が多く、身近に仲間もいて、演劇は作りやすい環境だった。だからこそ携わっていたところもある。今の時代にもし、東京で学生として過ごしていたら、YouTube、インディーズゲーム、謎解きあたりに一直線に向かっていただろう。

ライブの魅力は、最後まで分からなかったし、正直、今も言語化はできていない。

ライブは、演者と観客が「同じ時間」と「同じ場所」を共有する。「同じ時間」単体さえあれば成立する魅力と、両方が揃って初めて成立する魅力もある。先のストンプは「同じ場所」であることで魅力が増す例だ。そこまでは分かる。そこから先が、また捉えられていない。

コロナ禍以降、お笑いのオンラインライブをたくさん見るようになって、「これは、これで充分に満足感はあるな」とは思っている。「同じ場所」の要素を消して「同じ時間」という要素だけを残した表現でも、お笑いに限れば十分満足だったということだ。

一方、ライブで、大きな会場の持つ魅力も解る。さいたまスーパーアリーナや、東京ドーム、両国国技館などで、全角度、はてしなく広がる観客席をパノラマで見る感動は、何物にも代えがたいものがある。フロリダの、NBAオーランドマジックの本拠地アムウェイセンターの中に一歩入ったときも、心が震えた。そこでショーが行われ、満員の観客全員が融合するかのような一体感が、ライブの最大の魅力なのだろう。

スタジアムのスポーツ観戦の魅力はそれに尽きる、とすら言っていい。正直、プロ選手の巧みな技を味わう意味なら、テレビ中継の方が高クオリティなのだ。解説つきで観られて、映像もズームし、スロー再生してくれる。それでもなお、我々がときおりスタジアムに足を運ぶのは、勝利の歓喜で観客同士がシンクロする体験を得るためだ。

東北大学が行った脳科学の実験によれば、人間は、対面で会話をして盛り上がると、それに連動して、会話している同士で、前頭葉の血流量が同調し始めるらしい。そして、この現象は、リモートだと、ほとんど起こらないそうだ。リモート会議は、情報は伝達できるが、感情を伝達できない、ということだろう。

* * *

また、お笑いライブの話に戻るが、最近だと「有観客で、演者の前には、実物の観客はいるが、それとは別に遠隔でオンラインで見ている客もいる」というパターンも増えている。お笑いライブのパブリックビューイング、とでも言えばいいだろうか。

東京03のライブは品川の映画館で友人と観たが、ライブ後、友人と居酒屋でライブの感想を交わす宴は、充分にライブ帰りの体験そのもので、満足感があった。

「たりないふたり」のライブも、横浜みなとみらいの、有観客ライブを映画館で配信した回がいちばん好きだ。観る側としては、その映像に、他の観客の歓声が含まれてさえいればいい。自身が当事者として会場にいることは、あまり大事でない気もする。

金曜ロードショーなどでのアニメ作品の上映は、いまやTwitterを介した、日本全体を巻き込むパブリックビューイングと化してきている。ジブリ作品や、新海誠監督作品を、皆で鑑賞する国民的行事。「同じ時間を共有するライブ感」を皆、楽しんでいる。W杯鑑賞や、大晦日のカウントダウンに近い。これも広く言えば、ライブエンターテイメントのひとつだ。

‥これだけサンプルがあっても、今もまだ、ライブのことが解らないでいる。ライブにもいろいろある、としか言えない。運営型のゲームが増えた今、リアルタイム性を活かしたライブ体験の演出は、ゲーム開発者にとって無縁の要素ではないのだが、まだキモをとらえられている気がしていない。それはすなわち、使いこなせていない、ということなのだろう。

* * *

余談になるが、学生時代、私が演出をしていた劇団の役者には、双子が2組もいた。私はそれを最大限に生かすために、そのためのコメディの脚本を描いた。

舞台を左右均等に分け、とあるちょっとした運命の分かれ道から、左右の舞台が、別の世界線を歩み始めるパラレルワールドを表現した。

そして、そこに「双子の役者」をしかけた。途中まで同じ役者が、左右の舞台を行き来して、別の世界線を描いている‥というのをしばらく見せてフリにしたのち、クライマックスで、突如、双子2組が、左右の舞台にそれぞれ同時に立つというギミックだ。

眼前に同じ人が二人ずついる。人間が分裂したかのような現象に、観客は目を丸くし、ざわついていた。(演劇に詳しい方は察しがつくかもしれないが、着想元は劇団ヨーロッパ企画の「サマータイムマシンブルース」だ。あの構造を、裏返して利用した)

作品自体は今思えば荒削りで、物語の体験として意味があったかは分からないが、観客を驚かせる一発芸としてはかろうじて成立したようだ。これが、20歳そこそこの学生演出家だった私が繰り出した、全力の「ライブならではの演出」だ。

この先、誰ひとりとして同じ演出には挑まないだろう。なにせ双子が揃わない。あの時の京都でしか見れない。

②矢野顕子LIVE ~ピアノ弾き語り~(狛江エコルマホール)

夏の終わり、矢野顕子さんのライブに足を運ぶ。

米国在住ながら、精力的に日本でのライブ開催を続けてくれているヤノさん。行くたび、エネルギーを分け与えてもらうような気持ちがする。

今回も素晴らしかった。ライブの定番曲は抑えつつ、宇宙飛行士・野口聡一さん作詞の新譜から、千のナイフのソロまで。ニットキャップマンがライブで聞けたのも嬉しかったな‥。

アンコールにて。「中央線」と「ラーメンたべたい」どっちを聴きたい?と問いかけるヤノさんに対し、両方!と主張する観客の返答。ヤノさんは苦笑いしながらも、その場で曲を融合し、アンコール曲は結果「中央線沿いでラーメンたべたい」という、半ば新曲になって披露された。

最高のライブ体験だった。演者も、観客から受けるエフェクトがある。それもライブの魅力のひとつだ。このアドリブが、一夜限りの作品を生む。

会場を出て見上げると、夕空の雲が美しく照らされていた。他の観客も、空にカメラを向けていた。ライブと関係ないようだが、自然の美しさを感じる心持ちになれたのは、ヤノさんのおかげな気もする。彼女の目を通して、世界を優しく見るような感覚。一体感の残り香。

セットリスト

あと、ラーメンたべて帰りました。

(了)


【参考文献】
東北大学が行った脳科学の実験
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pjRVKnn59j/
この3年、リモート会議の割合が増えた。他者に対して、許し、労るような気持ちを忘れているかもしれないと思う。自戒を込めて。

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