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逆潔癖症という言葉があるかどうかはさておき

私はグラスの回し飲みは苦手です。できることならしたくないと思っています。

ただこの条件ならできる、という場面があります。
それは、自分の順番が一番最後である時です

まぁまぁ付き合いの長くなった夫に、ある時初めてこの話をしました。彼は一瞬きょとんとして、
「潔癖症?だったら最後に飲むのは嫌だよね。え、どういうこと?」

「私は自分が汚れていると思っているから、自分が飲んだグラスを、誰かに回すなんて申し訳なくてできないって思っちゃうの。」

そんなことを考えていたとは思ってもいなかったと、とても驚かれましたが、その後静かに「その話、誰かにしてみたら?」と彼は言いました。
それで前回恥感情について書いたnoteでも、きっかけについて少し触れています。

私は自分にこの傾向があることを、ずっと隠してきました。
狭い居酒屋の飲み会は緊張するので、頻繁にお酒を口に運び続ける羽目になります。料理をみんなでつつく時などは細心の注意を払い、自分の箸が余計なところに触れないようにしなければなりませんでした。
しかし時に隠しきれず、相手に対する拒絶と誤解されたこともありました。それでも本当のことは言えなかったのです。
言えばどうしてそう感じてしまうかの説明をしなければならず、その度に過去のことを蒸し返すことになり、ともすれば相手から「そんなことないよ」という言葉を求めるようなことにもなるのが本当に嫌だったのです。
そんなわけで飲食の場では、自分の食器の上の物や飲み物を誰かにシェアする時は、自分が手を付ける前に限られているので、そのチャンスを逃してしまうと気軽に「食べてみない?」「飲んでみない?」を言えなくなっていたのです。
と同時に、仲の良い友人に会うと、同じ空気を共有するのはなんてあたたかだろうとも思っていました。もっと自分をゆるせたら、もっと自分を認められたら、もっともっと…楽しいのにと。

不思議だったのは、ドイツに住んでスキンシップが当たり前の文化で時間を過ごしていた時は、むしろ逆潔癖症を意識しなかったことです。
ドイツにいた頃の私は本当に自由で、時にアノニマスで、過去に紐付く記憶が喚起されることもありませんでした。自己価値の源泉を他人に求める必要もなかったのです。

ああこんな自分もいるんだなと少しほっとしました。逆潔癖症ではない自分をどうにかもっと引き出して、新しいバージョンの自分になればよいのだなぁと。

最初は、生きづらさやストレスを抱えた方の助けになりたいと学び始めたセルフ・コンパッション(あるがままの自分を受け入れ思いやりを向ける)でしたが、途中で私はこれこそが自分に必要なものだったと気付きました。
偶然のように思えた出会いですが、おそらくそれは偶然ではなく、自分自身が求めていたから出会ったのだと今ならよくわかります。
時間をかけて、しかし着実に確実に、私はこれまでの自分を労いながら、新しいバージョンの自分になっています。

そんなありのままの自分をこうして開示することができ、あたたかで幸福度の高い強い結びつきに出会えるようになりました。
それはサクセスフルエイジング(幸福な老い)に、とても大切なものとなると思っています。

今日も私のnoteを読んでいただき、ありがとうございました。

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