諦めるということ

前書き

 人間、生きている中で何かを諦めるというのは珍しい話ではないですよね。例えば欲しかった物を金銭的な事情で諦めたりとか、行きたかった催事を仕事の都合で見送ったりとか…大きい物だと【夢】として掲げた物の実現を取り止めたり。

一般的に諦めとはネガティブな物とされます。

ここ最近Twitterでは「女性は何時だって夢の実現や人生設計を諦めさせられる!」なんて愚痴が大流行しております、他人の人生なのでそんなもん知ったこっちゃないんですがね。

かくいう私は夢というか、目標としていたものの達成・実現を諦めた人間です。

オタク特有の自分語り(飛ばしてもいーよ)

あまり詳細に書くと本筋から脱線するので簡潔にしますが、元々プロのミュージシャンを目指してました。

しかし唐突に「無理じゃね?」という思いが支配的になり、それまでは勉強熱心に聞いていたプロの演奏を聞いても自分の不出来を責めるような思考になるばかりで精神的にも非常に良くない状態でした。

なのでこれ以上続けても仕方ないなと思い辞めました、理由としてはそんなに深いわけじゃないですね。見込みないから辞めたってだけです。

「諦めた人」という被差別階級

さて本題はここから。その諦めにどう始末をつけていくか、というお話です。

冒頭でも申し上げた通り、諦めという感情や諦めたという行為自体が一般的に非常にネガティブな物として認識されます。

根性が無い、何かをやらせても続かないだろう、諦めグセがついてるだろうから雇うにもリスクにしかならん…等、社会的な悪評をつけようと思えば無尽蔵につけられますね。

人付き合いの面でも、「卑屈なんじゃないか」「ネガティブ思考で、こっちまで気分悪くなりそう」とか、心無い事を言おうと思えばいくらでも言えます。

そうですね、諦めた人というのは言い換えれば「社会的にどれ程罵詈雑言を浴びせても許され、ぞんざいに扱われて当然の人」となります。


そして諦めた後の人生の辛さは若ければ若い程、投げ出した物が人生に占める割合が大きければ大きい程増大し、空虚で無味乾燥(簡素)な物になっていくでしょう。

人によっては自ら命を絶ってしまうんじゃないでしょうか、その人にこの文章は届かないので読者には居ないと思いますが。

さてオタクらしき隙あらば自分語りをします、私もそういうクチです。

この先生きててもやりたいこと無いし、さっさと死んじまいたいなーと思ってます。こうして文筆という自慰行為に耽っている今でさえも変わることなく、です。

そういう人って何が嫌とか、何かが辛いからとかじゃ無しに死を望んでるんですよね。だから「生きてたら良いことある」とかは効果無いです、それどころか「無理解な恵まれた側の人間」認定されちゃいます!恐ろしいですね!


諦めた「後」を考える

話が逸れました。

そんな辛い、虚無虚無不憫なアフターギブアップ人生をそのままにしないためにはどうするべきか?

ひとつは違う目標を見つける事です。

理屈としては単純ですね、また違う熱意を持って取り組める事を見つければ再び人生に目標が生まれ、モチベーションを高めて生きていけます。

とはいえそう言うほど簡単には行きません、当たり前でしょう。

見つけるまでの間どう生き延びるか、ぶっちゃけ周り次第です。

他愛も無い話をしたり、遊んだりできる仲間を持っておけば難易度はかなり下がります。

何?居ない?Twitter探してみなさい、結構そういう人居るし、最近は反出生主義がトレンドですから案外気の合う人が居るかもしれませんよ!(2021/3/14追記 とかなんとか言ってたら反出生主義乞食がTwitterで暴れ回ってたのでアレと関わるのは辞めとくが吉ですね。)

さてふたつ目ですが…もう人生自体を投げ出して生きてく事ですね、今の私がそんな感じですが。

具体的にどういう事か、というと「目標を持ってモチベーション高く生きる充実した人生自体までも諦めちまおう!」ってことです。

ギブアップギブアップ、アンドギブアップなルートです。

ですがこちらのルートには強烈なデメリットがあります。

後になって振り返ってからの後悔が凄まじいです。その時間で何かしらできたろう、とか考え始めりゃ針の筵です。

なのでこちらのルートは次の目標とか道筋が見つかるまでのつなぎに使いましょう。

その目標とかもちっちゃいのにしとけば、ある程度このルートを歩んでても両立させつつ大きな目標を組み上げる時間稼ぎに使えます。


とまぁ、諦めた後の話を長々として参りました。ここまではいかがでしたか?お役に立てたならチャンネル登録を…と言いたいところですがまだ書くべきことはあります。


何かを諦めてもいいような人生設計

「諦める前」の話を少しだけしましょう。

そもそもの話、何かひとつ諦めたところで瓦解するような人生設計でいる事自体が非常に危険で、リスクの大きいことです。聞いてるか何年か前の俺よ。

ひとつ大きな道が途絶えても、人生の目標にできるもの

目標からは離れた人生を歩んでいても、人生の楽しみのひとつにできるもの

こういう物や道筋を確保しておくべきです。

してなかったために私は大変な目に合いました、しくじり先生チックですね。

例えばそれは友人関係とか、趣味とか、後は仕事とは別に設置しておくライフワークとかですね。こういう物はアフターギブアップになってから作り出すのはめちゃくちゃに難しいし面倒くさいのでそうなる前に手元に置いておくべきです。目標を諦めた挙げ句友人関係もぶん投げた結果趣味すら楽しめなくなり、ライフワークも何もあったもんじゃない人生を送ってる私が言うんです。ちょっとは信用してくださいね。

最後に、何よりも重要なのは「諦めそれ自体」を何時までも引きずらない事です。

「ええ、ええ諦めましたとも。それがどうかしましたか?」

この精神です、極限まで相手も自分も嘗め腐ってやりましょう。多少落ち込んでるんだからこのくらいで丁度いいです、ただ殴られても自己責任ということだけは了承してください。

終わりだ終わり

いかがでしたか?

人生に大きな変革をもたらすこともある諦観についてまとめてみました!

お役に立てたなら幸いです。

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See you next time!またね!



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