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つれづれ!『光る君へ』23回

周明、日本語ぺらぺらでした~ちゃんちゃん。

通事がいなくなって周明in!そう来たか!
対馬出身という周明に「日本人だね」とまひろ。
ええとそうだっけ?住んでいる人にそういう意識あったかなあ。というのは少し疑問。国、って意識あったんかな。(例えば大和の国の人、とか、駿河の人とか、相模の人、とかそういう意識の方が強くあったと思うんだけどな)

周明とのトークで交易品に「貂の毛皮」が出てきましたね。『源氏物語』で末摘花が羽織っていたという黒貂の毛皮でおなじみです。(うきうき)
末摘花は父上が常陸宮ですが、早くになくなってしまい、荒れ果てた屋敷で一人で暮らしています。なにせ深窓の令嬢だったようで大変古風な教育を受けていらっしゃったらしい。兄は僧侶になり家におらず、叔母は国守に嫁いでいて、夫と一緒に下向する時に末摘花にどうするか聞きにきたりしてくれるんだけど、末摘花は「ここを動くなんてとんでもない(そんなはしたないことできない)」という考えなのですね。古風すぎるが故に、自己解決能力もなくなっているっていう。おばさんはその末摘花にキレて、じゃあこのおんぼろ屋敷に一人でいるのか!っていうか家人もこのままじゃいられないでしょ!だれが生活費払うんだ!!!といかにもおばちゃんぽい説教を叔母はかましてくれます。(ほんと、ありがたい人ですよ)なのに末摘花は屋敷から出られないんだよ~常陸宮、娘に呪いかけてるよ~~~
そんなこんなで困窮し、どんどん家人はいなくなり、「さすがに私が見捨てたら姫しんじゃう。ていうか、さすがに見捨てるとどうなるかわかってるから心苦しすぎてできない」という女房と家人が数人だけ残っているという屋敷で、父の形見である黒貂に昔ながらの香(高級品)をたきしめて身に着け、琴を弾いて生きている、孤独な末摘花。残った家人もどうにかして誰かを手引きしちゃえ!と思うも、本人が深窓のお嬢様すぎて婚期も逃す…。
黒貂も香もかつての栄華の残り香です。
貂はええとヨーロッパの王族の肖像画でよく羽織ってるマントになってる毛皮ですよ。こういったものは中国から来るものもあるでしょうが、主に朝鮮半島のうえのほうから今のロシアの東側にあった渤海国との取引で使われていたようです。一番盛んに取引されていたのは唐の時代みたいですね。唐に朝貢貿易仲間ですね。日本にも朝貢貿易をしていました。朝貢貿易というと小国が大国に貢物を渡す、というイメージが強いかと思いますが、たとえば日本が唐に朝貢をすると、それより多くを唐が返さなきゃいけなかったんです。(なぜなら大国は小国に優しくなきゃいけないから的な考え)だからあんまり頻繁に来られても迷惑なのですが、渤海は「すきだから!」とか言ってしょっちゅう来ていたらしいです。ほんとの目的はそのついでに行う日本海側の都市での密貿易…
貂の話から逸れちゃった。
とにかく、末摘花はなんていうか不細工だろうがなんだろうが心が綺麗すぎるから、源氏じゃなくても気になる、っていうか心が痛むし、最後まで面倒見るしかない、と腹をくくりますな。
あ、そういえばかぐや姫が燃やしたのは火鼠の皮衣でしたね!!あれも貂だっけか。

宋に憧れを抱きまくるまひろですが、さすがに科挙だって女性の登用はなかなかなかったんじゃね。
前に書いたかもしんないですけど、『源氏物語』で紫式部は貴族の息子がなにも勉強しなくても官位を得られていることを皮肉ると同時に、勉強を一生懸命したあげく貧乏学者にもすごく皮肉っぽい目を向けています。光源氏は息子の夕霧に地位(従五位下スタート⇒つまり殿上人ではない)も与えず、大学に入れてました。鬱屈してますね!!

今回の定子ききょうコンビの段は、ききょうが五月雨式に枕草紙を定子に献上しているあたりでした。二人とも白い服を着ていたのはもうすぐ出産の場面だから。長女の姫、脩子内親王、ご誕生です!!
おめでとうございます。一条天皇もウキウキでございましたね。行成は一条天皇推しだから一緒に喜んじゃって、道長に釘をさされていました。「それがあいつの作戦なんだ!」⇒だんだん、腹黒くなってきました!!
一条天皇が「お前の書いた書」という行成の古今和歌集については後で書きます。
あの歌を詠んだ一条天皇と行成の姿と定子とききょうの姿が対比的に描かれていました。道長の意向に背けず、一条天皇の側にも立てない行成と、定子に「うつくしきもの」を献上し、「そなたの中に残っているとうれしい」とあのころの輝きと定子のすばらしさ、中関白家の教養とよろこびにあふれた姿をこれでもかと書き綴ったききょう。
道長の黒いところがまだうまく隠れているような感じがしますが、どうなのかしら?見てる人には伝わっているのでしょうか。

さて、まず「うつくしもの」からいきましょう。
この段もよく教科書などに載っていると思うのでご存じの方も多いとおもいます。


うつくしきもの。
瓜に書きたる児の顏。雀の子の、鼠なきするに、をどりくる。
二つ三つばかりなる児の、急ぎて這ひくる道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなる児の、目に髮のおほへるを、かきはやらで、うち傾きて、物など見たるも、うつくし。
大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられて歩くも、うつくし。
をかしげなる児の、あからさまに抱きて遊ばしうつくしむ程に、かいつきて寝たる、いとらうたし。(略)
鶏の雛の、足高に白うをかしげに、衣みじかなるさまして、ひよひよとかしかましう鳴きて、人の後・前に立ちて歩くも、をかし。
また、親の、ともに連れて立ちて走るも、皆うつくし。
雁の子。瑠璃の壺。

枕草子

とまあ「うつくしきもの」
瓜に書いた子どもの顔、雀の子がちゅっちゅっと跳ねてくること。2,3歳の子が急いで這ってくるところに小さい塵があるのを目ざとく見つけて、ほんの小さなごみをめざとく見つけて可愛らしい指に捉えて大人なんかに見せること。おかっぱの子どもが目に髪がかかっているのにかき上げないで、頭を傾けて物をみるしぐさ。まだ大きくない貴族の息子が装束を着させられて歩いている姿。小さな赤ちゃんをちょっと出して遊ばせてかわいがっている間に抱き着いて寝てしまう。

鶏の雛が、足長く、白く愛らしく、裾から足を出した感じの格好で、ぴよぴようるさく鳴いて、人の後先に立って歩くのも面白い。
また、親鳥が一緒に連れて走るのもみな、可愛らしい。
カルガモの卵。瑠璃の壺。

とまあ、この最後の鶏のくだりを定子が読んでいましたね。こういう小さな喜びを見つけてなんでも面白がることが定子が作ったサロンだった、とそのサロンを今紙の上で再現させた少納言の力はすさまじいですね。定子を喜ばせ、定子の「今」を楽しく美しく、少しでも笑ってもらえるように!という姿が見て取れて尊かったですね。
じじつ、『枕草子』は一冊の本になって知られたのではなく、なんどかにわけて流布された、と言われています。
いくつかの本を読むと①長徳の変のあと(少納言がスパイ疑惑をかけられて定子に仕えられなかった期間)②再度定子に仕えている間③定子の死後と三期に分かれて作られていたと言われています。つまり手段はどれもこれも「草紙」だけど目的が全然違う。

では次に一条天皇が行成に詠んでいた歌についてちょっとだけ…
詠んでいた和歌はこちら。

夢路にも つゆやおくらむ よもすがら かよへる袖の ひちてかわかぬ
紀貫之。恋歌二に所収されています。

この歌は『伊勢物語』54段の和歌、

行きやらぬ 夢路を頼む たもとには 天つ空なる 露やおくらむ

という歌を元にして作った歌と言われていて。それを本歌取り、っていいますね。本歌取りは今だと「パロディじゃないか」とか「パクリ」とか言われるかもですが、当時の教養の重要な点が、「なにかがあった時にその場面にあう、もしくはその場面を見て「一言」などの「過去の和歌の一節をくちずさむ」ことだったんで、引いてくる古歌がその場に合えば合うほど「うまい!!」「さすが!!」とちやほやされる!わけですね
『伊勢』の54帖の話はこんな始まりです。
「昔、をとこ、つれなかりける女にいひやりける。」
『伊勢』は「昔をとこ」で始まる男の一代記のていをとった歌物語ですね。
むかし男が自分のことを相手にしない冷たい女に送った歌。そしてその送った歌がこれですね「行きやらぬ夢路を頼むたもとには天つ空なる露やおくらむ」
たどり着ない、はかない夢路を頼りにするしかないまま眠る私の袖は、果てしもない大空の(涙の)露が降りてくるのでしょう。と。
これを踏まえて紀貫之が
夢の中での通い路であっても、夜の露が下りています。私の袖が濡れたまま乾かないのですから。
という泣きながら眠って朝になってもまだ袖が濡れていた、という恋人を求める歌ですね。
一条天皇と定子の関係を考えると行成も泣いちゃうよね!!
それなのに、みーちーなーがー!!!

それでは、また次回!


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