つれづれ!「光る君へ」第12回
一週間遅れの雑感「光る君へ」ですけれど、毎週いろんなことがあるねえ。ほんと。面白い。来週はとうとう定子さま登場では?わくわく!!
①道長の結婚
とうとう、道長は倫子の家に婿入りしました。土御門邸を見て「広くていいおうち」と言っていましたが、お前の家じゃん、というツッコミをしちゃいましたよね。道長はのちのち土御門殿、と呼ばれるんで。
倫子の結婚について父より母のほうがプッシュしたというのも『栄花物語』に残っています。
『栄花物語』は宇多天皇の即位から堀河天皇までの15代200年を仮名文字でえがいた歴史物語です。本編のほとんどを赤染衛門が書いたと言われています。赤染衛門といえば「光る君へ」では倫子の家庭教師として仕えています。仮名文字であることと、とても情緒的だったりすることと、脚色や演出もあるので、「ほんとじゃない」と言われていますけども、「光る君へ」などの大河ドラマとか司馬遼太郎を思えば「歴史に触れる」という点でもとてもいいんじゃないかと思いますけどね!そもそもいくら中立、と思って書いても歴史はその立場や意見で見え方が変わるものですしね。
赤染衛門が書いているので、道長はいつでも絶賛です。シュッとしてかっこいい、と書いてあります。
そんな『栄花物語』によると20歳くらいの道長が22歳くらいの倫子に求婚したところ、父の源雅信は「身分も低い」「本来なら天皇の后に」→このころ道長はパパ兼家の猛プッシュで従三位になっています。あと、天皇も春宮もいまいち年齢が合わなかった…
とかいうことで、三男だから今後の出世も見込めなそうだし、ええ?嫌だなという態度をとるも、妻の穆子が「道長の将来性を看破」していわゆる逆玉の輿を認めた、というふうに書いてあります。母は強し!!
書き方としては道長は倫子と結婚してラッキーだった!!って感じなんですよね。道長と倫子はたぶんめっちゃ「ソウルメイト」ですよね~なにせ、その後たくさん子どもを産んでくれますし、その産み分けも完璧。娘4人に息子2人。ですべての娘は天皇の后になっておりますから…道長の出世街道は倫子のおかげといっても過言ではないわけですね。
そんなこんなで倫子と結婚した話はガッツリ『栄花物語』に(となりにいるかのように)書いてあります。
そしてもう一人の妻明子も登場。明子女王と言われていたのは父が失脚してからおじさんに養子に入っていて、まだ皇室に籍があるから女王と呼ばれていたわけですね。
父の失脚というのは「安和の変」のことです。どういう話かっていうと、例によって例の如く、天皇のどの息子を皇太子にするかでもめた結果、源高明の娘が嫁いでいた親王が負けます。その結果?結果というかこの際、権力の座から排除しようぜ、となって謀反を起こそうとしている、という諫言があっていろいろ捕まったあとで高明も(なんだか関連はよくわかっていないけど、)大宰府の権の帥として送られた、という。この時に兼家ががっつりかかわっていたかというと、大して利害関係もなく、かかわっていたってことはどこにも書いていません。なんなら兼家の兄、伊尹が関わっていた的に書いてあったりします。最近は関わってもいなかったんでは?とも言われているので、兼家を呪詛してやる!とかかなりとばっちりでは…?
まあ父が飛ばされると大変なんですよ。明子はおじさんの養子になるも、そのおじさんは亡くなってしまうわけです。そうすると(まひろ一家のように)生活もままならなくなるので、詮子に庇護してもらって、東三条のお邸に住んでいたりもしてたはず。なので、詮子の紹介で道長と結婚するっていうことになりますね。
明子も男子を4人女子を2人産みますが、倫子の子とは明確に出世に差がありました。明子は血筋は完璧だが父は謀反の疑いで失脚していて、なおかつ他界。道長は自分の権力基盤の後押しが「誰からされているか」を完璧に認識していた、ということですね。
ドラマでは多分明子と倫子は同時期に結婚したという感じかもしれませんが、実際は倫子結婚よりもっと後ではという説もあるし、前ではという説もあります。
道長の明子から倫子への心変わりを嘆いた(というていで描かれた)歌があります。
見てみましょう。
<詞書>左大臣のつちみかとの左大臣のむこになりてのち、したうつのかたをとりにおこせて侍りけれは
年をへてたちならしつるあしたつのいかなる方にあとととむらん
(『拾遺和歌集』雑上 498番 愛宮)
愛宮というのは明子のお母さん。つちみかとの左大臣とは道長のことですね。道長が婿になったあと、「したうつのかた」ってのは衣装の型紙みたいなもんらしいです。要するに婿に入るとその家で着るものをあつらえるので、明子の家には道長の服やら足袋やら靴の型紙があったんです、それを「貸して!」って言って土御門(倫子んち)の人が取りに来たので、っていう詞書です。
もうちょっと気を使って欲しいよね!!まじで。
ずっとうちで慣れ親しんでいたのにのようになっていたのに、鶴のように飛んで行ってしまった。どこで引き留められているんだか!
みたいな歌ですね。
詮子が結び付けた二つの縁って感じですね。悪いですねえ~~、詮子はもっともっと悪い顔になる(だろう)からそれも楽しみですね。
②あとは小ネタいろいろ。
小右記によると実資が赤痢に苦しんでいたのはほんと。まひろとの結婚話は作り話だと思うけど、どっちかというと実資は紫式部のソウルメイトだか!ら!はなくそとかいうな!など思うのでした。
異母妹?のさわ。の話
『紫式部集』(紫式部の歌集です)には、友人の話がよく出ていて、その友人が父親と一緒に任地に下るのを励ましたり、慰めたりする歌がよく出てきます。
百人一首の歌「めぐりあいて…」の詞書にも幼いころからの友人に久しぶりに会ったけど、懐かしんでいる間もなかった、といったことが書いてありますが、たぶんその友人をモチーフにしているのかもしれませんね。
その友人が筑紫に行き、紫式部が父親について越前に行ったときも文通を続けています。詞書っていうか、いつもちょっと偉そうなんだよな、紫式部の歌…
③庚申待ちの夜に
道長は庚申待の夜にまひろにあってその足で左大臣家に行ってましたね。素早すぎないか。
庚申待ちとは道教由来の信仰で、どうやら足にふだん虫がいて(水虫ではない)庚申の夜に閻魔様に悪事を報告に行くらしいです。なので、寝ないで過ごす、と。道端や、神社の片隅なんかに庚申塔って残っていないですか?それはこの庚申待ちを3年続けると記念に立てていたらしいです。
そういえば高円寺に庚申通りというのもあって、あれも庚申塚が由来ですよね。(庚申塔もあった気がする)
庚申の夜は静かに過ごす、的に紹介されていましたが、基本はパーティして過ごすことが多いと思います。
『枕草子』に庚申待ちの夜の話が出ているので、参考にちょっと見てみたいと思います。
庚申の夜、閑だからというので、定子の兄、伊周がやってきた。みんなにお題を出して歌を詠もう!なんて言っていてみんなうんうんうなって考えている。清少納言は定子のそばに侍って素知らぬふりをして無視していたらこんな歌をなげてよこしてきた。
「元輔がのちといはるゝ君しもや 今宵の歌にはづれてはをる」
(元輔は清少納言のお父さん。有名な歌人で詩人で…とにかく教養の鬼でした。その元輔の後をついでいる君がま・さ・か・今夜の歌の集いにはずれているなんてね!!)
それをみて
「その人の後といはれぬ身なりせば 今宵の歌をまづぞよままし」
その人の跡継ぎとか言われなかったら一番に歌を詠んでいますよ!まじで!!この立場厳しいんだからね!
と詠んでみんなそりゃあそうだ!で賑やかに笑いあったのでした。
『枕草子』は定子とそれをめぐる人々がどんなに楽しく、いつも笑いが絶えず、素敵な日常だったか!!ということを力いっぱい精一杯書いている本なのです。
ワイワイ楽しんでいる定子サロンの様子がうかがえますね。ちなみに、清少納言のお父さん、清原元輔が庚申の夜に詠んだ歌はこちらです。拾遺和歌集に載ってます。
庚申の夜と七夕が重なった日に詠んだ。
「いとゞしくいも寝ざるらむと思ふかな けふの今宵にあへるたなばた」
そうでなくとも寝られない7月7日の夜にますます織姫は寝られない夜になっていることですなあ。
庚申にちなんだ歌を、と言われてこれを詠んだら「うまい!!!」ってなりますよね。
では、また!!
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