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わたしをことばにする。〜トウモロコシから始まる、わたし、とは?〜

2019年9月2日のお昼頃。私は、トウモロコシの調理をしていました。ヒゲを取り、皮を薄皮残り1枚まで剥いて開いた実に塩水を付け、再び皮で包む。そして、ラップでくるんで電子レンジへ。

そんな最中にぼんやり考えていたこと、というと、トウモロコシには幾重もの皮の中に無数の実があり、その実の奥には芯がある。

「あれっ、トウモロコシって、まるでわたしならず、人の姿を体現しているみたいだな」ということ。1番の表は仕事や肩書き、キャリア、といった表層的な皮や薄皮に包まれ、一旦それを剥くと、無数のわたし、をつくりあげる構成要素(感情、性格、思想、嗜好などなど)が現れる。更に、その実の奥には肉体、もしくは、わたしの心の最も内側、ともいえる芯がある。わかりにくい例えかもしれませんが、わたしにはしっくりときました。

剥けにくい(剥きたくない)皮もあれば、皮を剥けば、一方ではたやすくポロリポロリと落ちる実もある。皮を剥いた、わたし、についている実には、甘いものもあれば、パサパサなものもある。その1つ1つを咀嚼すると芯に出会う。芯がないトウモロコシはない。わたし、について、を、あらわす、って難し過ぎる。。。

そんな「わたし」についてをぼんやりと考えていたのには、同日の夜に、「わたしをことばにする研究所」のプレワークショップに参加することがあったから、だと思います。

トウモロコシを美味しく食べた私は、彼女と共に、いざ、会場のamuさんへ向かいました。これから、何が始まり、起こるのだろう、という期待と緊張と共に着席。

肩書きや仕事を脱ぎ捨てた、わたし、との対峙。矛盾する様ではありますが、私が最もといってもよいほど、避け続けてきた一方で、常に自問自答してもいる命題に、敢えて心を向ける時間を作ることにしたのです。

始まって、間もなく。わたし、をことばにする、テーマとして、自己肯定感についての話が交わされました。

自己肯定感、自己中心、自己愛。似た様で、非なる言葉。果たして、自己肯定感の高低の話と後者の2つそれぞれ、は性質が異なるものだけれど、わたし、をことば、にする上での差異として表現をするって難しいな。それが、私が受けた印象でした。

「I 'm OK!」と「I love me.」だとしたら、自己肯定感は前者、の感覚なのかな? と、考えたりもしました。

すなわち、宮瀬さん、堀潤さん、参加されている方々のお話を聞いていて、私の頭に浮かんだのは、この疑問でした。

そもそも、自己肯定感ってなんだろう??

例えば、ポジティブなわたし=自己肯定感が高い、とも言えますが、ネガティブなわたし、にも自己肯定の余地は存分にある。フラットでぼんやりしたわたし、にも、自己肯定感は伴うし。。。(私の場合は、ですが)一方で、その全てが自己否定に転じる時もあるし。。。万事、表裏一体の様な、だから、総じて人生は楽しいような気もするし。。。一元的に、わたし、は、存在している訳ではなく、傾向はあれど、流動的なもの。。。

この抽象的な頭の中、すなわち、わたし、を具体化するのは、難しい。。。

正直、そう思っていました。なので、具体的にお話をされている宮瀬さん、堀潤さんが仰っられていた、わたしの棚卸し、というプロセスは、しんどいけれど、大切な事だな、と感じました。具体化、伝わりやすさ、わかりやすさ、は、見えにくいものを見えやすくする。単純なようでいて、難易度が高い、と常々思う私には殊更です。

そんなことを思い、考えていると、ワークショップで具体的に、わたし、を、言葉であらわす時間になりました。

5枚の付箋に、わたし、のことを書いていく。こんなわたし、好きだな→あまり好きではないな、の順番で書いていくのがルールでした。

ちなみに、私は、その5枚に、以下の様に書きました。

①色がない ②染まることを楽しめる ③〜ぶることが多い(器用貧乏) ④まわりに合わせ過ぎてしまうことがある ⑤自分の軸や核がわからない

色がない。一聴すると、ネガティブに聞こえるかもしれません。けれど、好きなわたし、をあらわすのに1番しっくりくる表現でした。

色、という言葉を使ったのは、ワークショップでのお話の最初で、「あなたは自分を何色だと思いますか?」という質問が出されたことがきっかけでもありました。私の答えは、「全ての色」、もしくは「無色」だったのです。特定できない優柔不断さ、も、わたし、でしょうか。。。

私は、ポジティブもネガティブもフラットも、色を変えて万華鏡の様に、わたし、を成すもの、だと思うからです。グラデーションが織りなす綺麗さ、というよりも、明るい色なはずのものが、一転にわかにかき曇る、その逆もありで、色で言うなれば、「雑多でカラフル」がしっくりくるかもしれません。

もっと具体的に、わかりやすく書けるといいな、と書き上がった付箋を見て、その後の参加された方の書かれたことを見て思ったことは言うまでもありません。。。「これは、宿題にしよう」 そう思いました。

ワークショップも後半になり、最後に、5枚の付箋で書かれた、1番ネガティブな部分のわたし、をもとに「○○だけれど○○なわたし」を考えてみる、こととなりました。

わたしは、「自分の軸や核がわからないけれど、(だからこそ)人を愛したり、話して接していきたい気持ちは人一倍ある、わたし」と書きました。

参加された方々と共にためらいながらも貼りました。

わたしの中で、ネガティブだな、と思う要素も、噛み砕くと気づかなかった別の角度のポジティビティや違う色が見えてくる。わたし、の中で否定している部分かもしれないけれど、肯定に繋がる角度もあるかもしれない。もしかしたら、ないかもしれない。それを繰り返したり、変化したり、しなかったりする、包括的な生き物であるわたしをできるだけ楽しく味わおう。それが、わたしをことばにしたことで、感じたことの1つでした。

ワークショップは、日々の生活の中ではなかなか得難い時間でした。わたし、をことばにする、ことは、自覚的になれる、まわりへの接し方や見え方も変わることでもあるので、大切なことだ、とも感じました。宮瀬さん、堀潤さん、きっかけや気付きの場をありがとうございました。ちなみに、堀潤さんがされていた、自分を笑ってごまかす、というお話があったのですが、稚拙ながらも自分が過去に書いたブログを思い出しました。修正を加えてnoteに再掲してみました。よろしかったら、そちらも読んでいただけたら嬉しいです。↓

https://note.mu/emoemo1412/n/neb60c2186235

そして、私は同行した彼女と帰り道で、ワークショップに参加して感じ、考え、思ったことを話しながら帰路に着きました。

(帰り道編に続く)

 #わたしをことばにする #わたしをことばにする研究所 #ことば #わたし  


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