#3【英語と私】私が英語を話しているほうが生き生きしてしまう理由
こんにちは、詠美衣(エミー)です。
「なぜ英語を勉強するのか?」
小学校でも教科として必修になった
このご時世、改めて問う命題でも
ないのかもしれない。
だけど案外、個人に置き換えてみたときに
ただなんとなく「英語はできたほうがいい」
と思って、勉強しようとしている人が
実に多いなと周りを見ていて感じる。
「英語絶対主義」はよくない!
母国語をもっと大事にすべき!
という論争などがあるのも知っているが、
私個人としては「英語」は
生きづらい日本社会で
溺れかけていた私にとって
「浮き輪」のような
「シュノーケルマスク」のような
そんな有難い存在だ。
「一体どういうこと?」と思う人のために、
そんな私と英語の出会い、そしてこれから
英語を通じて実現していきたい「ビジョン」
を連載で語っていこうじゃないか。
▼前回までの記事はこちら
小さい頃から日本文化に
違和感と窮屈さを感じながらも
そこで生き伸びていくために
すっかり日本人のマインドと
所作が染み込んでしまった私。
日本語で話すときは、
いつも周りを気にして
オドオド、ボソボソ。
言いたいことが
うまく言えず
なんだか
"自分らしくない!"
と感じていた。
一方、学校の授業や
海外の先生と英語で
話すときは
心が自然とオープンになり
相手に対して緊張もせず、
余計な気遣いもせず、
ワントーンかツートーンくらい
明るく生き生きとした調子で
話すことができた。
もちろん母国語の日本語
のほうがスラスラ・・・
というかツラツラと
喋れるのだけど、
カタコトで時間がかかっても、
英語のほうが言いたいことを
すっきりと自分らしく表現できる
ようなそんな感覚を抱いていた。
「英語で話してるときのほうが
生き生きしてて、別人みたい」
と周りにも言われるほど。
私が英語という言語が
好きな理由のひとつに、
上下関係がなく、誰と話していても
対等になれる言語だから
というのがある。
日本語の敬語や丁寧語、
苗字に「さん」を付けて呼ぶことは、
良くも悪くも、相手と上下関係が
作られるし、一定の距離が保たれる。
一方で、英語は相手が先生だろうと
社長だろうと、初対面だろうと、
ファーストネームで呼び合い、
親しい友達や同僚とさほど
変わらない調子で会話ができる。
「みんな同じ人間なのに」
どうして上下をつくったり
距離感をわざとつくったり
して接しなければならないの?
と感じてきた私にとって、
この英語の「対等な感じ」が
すごくしっくりきていた。
私は特に、
このファーストネームで呼び合う
というところが非常に好ましかった。
ファーストネームは、
その人にしか与えられない
名前だからか、特別な感じがするし、
呼び合うと親しみや愛を感じるのだ。
そしてどんなコミュニケーションの
テクニックにも勝る、いっきに相手と
の心の壁を越えられる魔法の"フレーズ"
なのではないかと感じる。
日本人はただでさえシャイなのに
敬語や苗字に「さん付け」を
使ってたらますます心の壁が
分厚くなってしまっている
ような気がする。
国民性が言葉を作っているのか、
言葉が国民性を作っているのか、
きっとその相互作用によって
どちらも出来上がっていくもの
なのだろうけど。
言葉、文化、国民性は密接に
影響を与え合うのだと、
この例ひとつとっただけでも
実感できた。
つづく
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