両親とも毒親でした①
「両親ともに、いわゆる毒親」
そう認めることが、長らくできなかった。
子どもにとって親というものは絶対であり、
その教育方針や家庭のルールがどんなに理不尽なものであっても、
なかなか気づけない。
私はずっと、自分の存在理由は親の役に立つためだと思い込んで生きてきた。
親の役に立たない私は生きる価値がない、と言ったほうがより適切かもしれない。
だから、親に認められることこそが私の人生における最重要事項だし、そのために自分を犠牲にするのは当然だった。
「子は親に尽くすために生まれてきた」
子どもは親の所有物であり、投資するのは後で回収するためだ。
そんな人生を生きるには、自分の意志や欲求などないほうが楽だった。
家は安全な場所ではなく、
両親は庇護してくれる存在などではなかった。
何をきっかけに父や母の機嫌を損ね、
いつ怒鳴り声が飛んでくるか分からないので、
常に緊張状態だったが、
それが私にとっての「日常」なので、
自分の心身が緊張していることも分からなかった。
「いつもビクビクおどおどして、おかしな子」
「どうして普通にできないの」
「お前が全部悪いんだ」
息をひそめ、
なるべく気に障らないようにしよう。
でも、それがかえって両親をイラつかせることもある。
「口がついてないのか」
「〇歳にもなって、恥ずかしい」
父や母の決める「良いこと」「正しいこと」には一貫した法則性がなく、
その時々で変わった。
一瞬でも気を抜けば、いつどこで、致命傷となる地雷を踏んでしまうか分からない。
だから、常に人の顔色をうかがう癖がついた。
必然的に、人の考えていることや感じていることに敏感になった。
我が家は貧しくて、両親はお金のことでしょっちゅうケンカしていた。
ケンカが激しくなると、こちらにも物が飛んできたりする。
父が母に手をあげることもあったし、下手に仲裁に入るととばっちりで殴られることもあったので、身を固くして動向を見守っていた。
ケンカがエスカレートすると、母はすぐに私たち子どもを置いて、一人で遠方にある自分の実家に帰ってしまうのだった。
一度出ていくとしばらく戻ってこないので、
心細がって泣く妹をなだめるため、私は「全然平気、こんなの何でもない」フリをして楽観的なことを言った。
ある晩、私が夕飯を作っているときに、伯母の家にいるという母から電話がかかってきた。
伯母の子どもたち(私にとっては従妹たち)に郷土料理を作ってあげたと楽しそうに話す母に、
「よその子にご飯作ってあげるくらいなら、私たちに作ってよ」
と憮然としながら、表面上は平静に受け答えしたのを覚えている。
母はいつも誰かが自分を幸せにしてくれると思っているような人だった。
幸せにしてくれるはずの夫が情けないから、自分は不幸なんだという被害者意識をもっていたように思う。
そのうち、私が父の代わりに母を幸せにする役目を負わされた。
娘であり、親の代わりであり、夫の代わり。
だから、母が幸せでないのは、私の責任だった。
私はそれを疑わず、終始母の機嫌を気にして生きるようになった。
母の機嫌を損ねると、私だけ食事を与えてもらえないこともあったので、生きることに直結する問題だったというのもある。
父は、機嫌の良いときは子どもと遊んでくれる面白いお父さんだったが、
何かをきっかけにスイッチが入ると豹変し、
手の付けられない暴君になった。
吐くまで泣いても許してもらえない。
執拗に攻撃され続ける。
両親は常日頃から、お互いの悪口を子どもに吹き込み、
自分の正当性を主張し合っていたが、
母はよく父のことを「あの人は病気だ。脳に腫瘍があるんだ」と言っていた。
しかし、頭に血が上って暴れまくっている父の姿には、あながち冗談でもないかもしれないと思わせるものがあった。
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