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闇を照らす栗まんじゅう

今朝、道を歩いていると歩道に落ちているゴミをチェック中のカラスと目が合いました。
とてもガタイがいいカラスで、私の身長の8分の1くらいでしょうか。
コンビニのレジ袋にぱんぱんに詰め込まれたカップラーメンの容器や菓子パンの袋なんかをくちばしでせっせと、一つずつレジ袋から取り出していました。
くちばしだけで軽々と中の物を出していくその様子に思わず見とれてしまって、足を止めて見物していると(暇なんですね)、私に気づいたカラスもくちばしを止めてこっちを見ました。完全に警戒している顔つきで、艶々とした身体を見せつけるように、トコトコトコトコとこっちに向かって進んできて、止まったかと思うと羽を広げました。
こいつ、横取りしに来たな、と思ったんでしょうね。わかります。
「ごめん、ごめん」と謝ってその場を離れました。悪いことをした。

言葉が通じないもの同士、それでも伝わるものってありますね。
それがなんだかちょっとうれしかった。
晴れた気持ちのいい朝に、道路に落ちてるゴミを微笑みながら眺めているちょっとあれな感じの人だと思われても、おつりがくるくらい心温まる一日にはなりました。

「どうでもいい、どうでもよくないこと」を思い出してしまうこと、ありませんか?
私はしょっちゅうあります。
例えばドラえもんの「バイバイン」という道具で増やされた栗まんじゅう。
最後、どうしようもできなくなって、ロケットで宇宙へ飛ばされた栗まんじゅうです。あれ、どうなったんですかね?
昔からどういうわけか、ときどきふとした時に思い出しては、宇宙で増え続けていく栗まんじゅうを想像してしまいます。暇なんですね。たいてい暇です。
つやっとした茶色のおいしそうな栗まんじゅうの集合体が、真っ暗な永遠の空間を照らしている。それを思うとき、がちがちになっていた心身がスッと緩むのが分かります。
物事の暗い部分ばっかりを見過ぎていると、だんだん心がこわばっていく時がありますね。それは肉体も同じ。怖いのは、そのことに気づかないこと。
私の場合、そのときに助けや救いになることの一つが、「バイバイン栗まんじゅう」なんだと、最近気がつきました。

ある年齢に達した時から、がんばっていること、大人としてやらないといけないこと、他者に(なるべく)寛大であること、など、挙げていけばきりがないくらい、「正しくあること」に対してちゃんとしなくちゃ、と自分に事あるごとに必死に言い聞かせてきたように思います。
それは、思いやりの精神や人生の喜びのため、というよりかはむしろ恐怖心からきている。
自分が「正しくないことをして他人を傷つけてしまう恐れがある可能性を十分に有している」という自覚。
まるでムーンウォークみたいな心構えですね。

ここまで読んでくださった方に心からの感謝を捧げます。
ありがとうございました。
「栗まんじゅう」の他にもあるので、それはまたの機会に聞いてください。
それでは、また。






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