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「笑坂&吉野大夫ツアー」(10)

【ツアー25】 「吉野の墓」

お盆前の八月某日、吉野大夫の墓に参った。吉野大夫は旧中仙道追分宿のメシモリ女で、享保二十年(一七三五)隠れキリシタンのかどで斬首されたと伝えられている。夏の間、浅間山麓で山小屋暮しをするようになって、かれこれ十七、八年になるが、この墓参はここ七、八年の習慣である。
(中略)
道路脇の狭い墓地には、浅間の焼石の小さな墓石が、九基並んでいる。四基ずつが向かい合い、一基だけがぽつんと離れている。どれもメシモリ女の墓らしいが、墓地のほぼ中央にある墓石が吉野大夫の墓だといわれている。石の裏側凸凹ざらざらの焼石のままで、表側に「春貞禅定尼/享保廿卯天三月十八日」の文字が見える。
(中略)
吉野大夫の墓の前に、泥だらけの空瓶が二つ置かれていた。坂の下を流れている小川へ行ってそれを洗い、水を汲んだ。それから、持参した野菊を九つの墓に供え、移植ゴテで土をほぐして、線香を立てた。

「吉野の墓」(「群像」1989.10、『小節の快楽』p.24、1998.2刊)
吉野大夫の墓とその横に寄り添うように立っていた小さな墓
吉野大夫の墓の横に咲いていた花
(カキドウシまたはセイヨウカキドウシ)

「坂の下を流れている小川」は下流で「追分の川」(千ヶ滝湯川用水温水路)に合流していました。

坂の下を流れている小川(上流側)
小川は吉野坂下から流れ、「追分の川」に合流していました。

【ツアー26】 「追分の川」

何年か前の夏のある日、笑坂の途中から林の中の道を南へ南へと歩いていくと、とつぜん川の音が聞こえて来た。
おどろいて音の方へ近づいていくと、目の前に川が出現した。幅二十メートルくらいの堂々たる川で、東から西へゆっくり流れている。
川沿いに草道を歩き、一つ目の橋を過ぎ、二つ目の橋の畔で二たびあっとおどろいた。そこから眺める浅間山は私の追分浅間五景の一つになった。以来、この川は私の散歩コースの一つになっている。

「追分の川」(「群像」1996.11、『小節の快楽』p.69、1998.2刊)
追分の川に架かる一つ目の橋
この橋で左折すると笑坂へと続く林の中の道です。
追分の川に架かる二つ目の橋(下流側)
明生橋(【本陣の会】参照)は、この川に架かる橋の何れかと思われます。

【本陣の会】

一九七七年夏のことであった。福永さんが中心になり、近くの別荘に住むロシア文学者原卓也氏の肝煎りで、旅館本陣で小さな集まりをもった。福永さんは酒徳利に詰めたスープのようなものを持参されて、ご機嫌であった。
一座のなかで酒量がすすみ、大声になったのは、後藤明生とロシア文学者江川卓の両氏であった。本陣の会が終ると原さんの別荘に移り、さらに酒と話がはずんだ。翌七八年の夏も同じようになった。いまは無い本陣旅館のつくりから推して一〇名少々の集まりであった。
(中略)
九〇年代に入ってからは、中村真一郎氏や辻邦生氏が几帳面に出席され、話術の巧みな人びとが多く、追分宿の会はかつてない活況を呈した。それゆえ中村真一郎さんを失ったときには、あの屈託のない話題のうちに籠っていた古い追分の気配までもう無くなってしまったのだ、という虚しさを思い知らされた。
(中略)
後藤明生氏の別荘と私の住居との―距離高低差の―ほぼ中間点、すなわち標高九五〇メートルの あたりに、一筋の川が流れている。そこに渡された橋のひとつを、私は明生橋と呼んでいる。晴れていれば噴煙を上げる浅間山の背景が美しい。いつであったか、文芸誌の写真のページに、欄干に寄り掛かる彼の姿を見たからである。体調を崩してからは酒席を避けた後藤さんだが、本陣旅館が無くなったあと、転々と場所を移した私たちの会場にも時おり姿を見せて、声は相変らず元気だった。電話のなかで、その声に促されて、彼の取り仕切る近畿大学まで、重い腰をあげて私も集中講義をしに出かけたのだが。二〇世紀もほとんど終りの夏、相次いで、辻邦生と後藤明生の両氏が亡くなった。辻さんの訃報は東京の編集者から直後に知らされたので、その瞬間、思わず息を呑んだ。
(中略)
考えてみれば、追分宿の集まりに来た人びとの別荘へ行く細道を承知しているのは、酒を嗜まない私が夜道のお届け役をつとめてきたからである。最後に去った江川卓氏を囲み、彼岸の人びとはどこで酒を酌み交わしているやら。 原卓也氏を初め健在な文人たちも過ぎ去った夏を偲んでいるであろう。

河島英昭「過ぎ去った夏の人びと」(日本経済新聞2003.8.24)

【追分の山小屋】

正直にいって、わたしは特に堀辰雄の愛読者ではなかった。わたしが追分に来るようになったのは、まったくの偶然だった。たまたま知人から中古の小さな山小屋を譲り受けたのである。それが六年前だったと思う。そして夏は追分で暮すようになった。場所は、分去れのすぐ傍だった。そこを旧北国街道の方へ入り、すぐに右へ折れる草道を三分ばかり登ったところである。わたしが堀辰雄を読みはじめたのは、そういう縁からだった。そして縁というものは、なるほど不思議なものだと思った。
しかしわたしは、自分が追分へ来たのが偶然であることを、むしろ自分にふさわしいことだと思った。偶然であるのは、何も追分だけではなかったのである。
(中略)
人間は誰でも常にどこかにいなければならない。同時にその場所は必ず一箇所で鳴ければならない。この事実が平凡であるからこそ、不思議な気持ちになったのだと思う。

「分去れ」(「文学界」1997.1、W226)

【追分コロニー】

「追分コロニー」は追分宿の「村の古本屋」
2006年8月に開店したそうですが、現在は隣接する「信濃追分文化磁場油や」と一体運営されているようです。

古民家風の追分コロニーの外観(2009.4.25撮影)
追分コロニーで買った本と粗品の手拭(2008.5.5)
手拭は四つ揃えると「ふるほん」となります。
追分コロニーのカフェコーナー(ブックカフェ)
庭を眺めながら美味しいコーヒーを楽しむことが出来ます。
ブックカフェの奥には薪ストーブもあります。
追分コロニーの庭に咲いていた木瓜の花
学術書も充実している追分コロニーの書棚(2009.4.25)

(続く)

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