月を待ちながら
「お待ちどぉさま」
「ああ、やっと来たか」
彼は視線を小説の文字に落としたまま、私を見もしないで面倒くさそうに言った。なぜその本が小説だとわかるかというと、彼はいつも小説を読んでいるから。私は彼の様子を無視するように、向かいの席に座って自分のコーヒーを置いた。
そのカフェはセルフサービス形式の店で、レジで先に注文をしてから、自分でコーヒーを持って席に座る。ちなみに店に流れているBGMは、私が知ってる数少ないジャズの曲で、曲名はなんといったか。知っているバージョンと違って、ダバダバダ~と歌っている。
彼は私のことなど気にもとめずに小説を読み続ける。体はここにあるのに、頭はどこかへ行ってしまっている。いったいどんな人と、どこへ行っているのか。
15分くらいそのままでいただろうか。さすがに私も退屈なので、パソコンを広げて仕事のメールをしたり、ネットをチェックしたりしていた。
彼は突然ぱたりと本を閉じ、冷め切った残り少ないコーヒーを飲み干した。
「どこに行ってたと思う」
「え、どこ?」
「教えない」
だったらなぜ質問したのか。
私たちは不思議な関係だ。私は、彼に会いたい時だけ、このカフェに来る。彼は、私に会いたくない時以外はこのカフェにいる。土曜の午後2時から3時の間。いつからかそう決まっていた。
そんなお互いの気まぐれがぴったり合ったときだけ、会うことができる。毎週のこともあったし、ひと月に1回もないこともある。ただ、だいたい彼はいるので、基本的には私の都合だ。今日は実のところ、3ヶ月ぶりにここへ来た。彼がもう、いないかもしれないという恐れを抱きながら。
「行きたいところがあるんた」
彼がそう言うのは珍しい。たいていは、私が行き場所を決める。決めると言っても、映画を見て、お酒を飲みに行く程度。今日も観たい映画があったけど、また今度にしよう。
彼はどこへ行きたいのだろう。でも今日は、聞いても教えてくれないだろう。
行き先は、プラネタリウム。へえ、懐かしい。親子連れがたくさんいる。そういえば今は夏休みか。
夏の星を見て、星座の物語を聞いた。久しぶりに見た星の話は、子ども心を思い起こさせた。45分程度で終わり、暗い部屋からまばゆく明るいロビーへ出た。
「思ってたのと違ったんだけど」
「へ?」
「月とか、見られなかったっけ?」
聞くと、彼が子どもの頃見たプラネタリウムでは、月の模様の話や、月面の話などをしていたらしい。それは、たまたまそういう回だったに違いない。
「行きたい場所って……、月が見たかったの?」
「教えない」
はあ。
「教えてくれないんじゃわからないけど、もし月を見たいとしたらいいところがあるよ」
私はそう言って、彼の反応をうかがった。
月は、三日月や半月などの形だけでなく、見られる場所も時間も毎晩変わる。まったく見られない日もある。だから本当のことを言うと、月が見えるかどうかなんてよくわからなかった。ただそこで、月を見たという記憶があっただけ。
「じゃあ、そこへ行こう」
彼は言った。
私たちは、プラネタリウムの近くにあって、噴水のある公園のベンチに座る。まだ空は明るかった。
月は?
雲が。
そう、雲が邪魔をしているのか、月は見当たらなかった。
雲の向こうに月が出ているのかすらわからず、私たちはベンチに座ったままで、先ほどコンビニで買った缶ビールを開けた。月が見えないからといって、彼は文句を言うでもない。
空が暗くなり、雲の間から月のありかはわかった。つまり、ここから月が見えるという私の目論見は間違っていなかった。だけどなかなか全貌を現さない。
「僕がカフェで読んでいた小説は、月に行く話なんだよ」
「そう。だから月が見たかったの?」
「君が来るように、ゲン担ぎしていた」
私の質問を無視している……。まあいいけど。
「ずいぶん会いに来ていなくてごめん。やっと離婚が成立したの」
「そっか」
雲が風に流されて、少しだけ月が見えてきた。
「『Fly Me To The Moon』って曲、知ってる?」と、彼が言う。「さっき、店で流れていた」
「ああ、曲名は思い出せなかったけど、知ってるよ。さっき流れていたのも覚えてる」
「歌詞の意味、知ってる?」
「月まで連れて行ってほしいってことじゃないの?」
「それはさ、比喩なんだ。『私を月まで連れて行って』っていうのは、別の言葉で言えば、『手を繋いで』『キスをして』ってことなんだよ」
「ふうん」
何だろう。月つながり?
「僕は、君と月が見たかったし、これからも見たい。これはね、比喩なんだよ」
気づけば雲はすっかり晴れて、ずっと待っていた月の全貌が見えていた。
サポートと一緒にメッセージをいただけるとすごく嬉しいです♪