初雪
冬になるといつも何か足りない気がする。その答えは、実は明白のようでそうではなかった。舗装された道路の上を歩く自分を「客観視」して、僕はこの風景が意味もなく滑稽に思えた。思えば、僕も今年で二十代も折り返しの地点に来てしまった。ずいぶんと冬恒例のものだったものを認識していない気がする。ただ別に僕はそれを求めている訳ではなかった。なぜなら、あれには、たくさんの「遺物」が混入しているからである。
初冬、雪は溶けてしまう。北国では、溶けずに雪が残ることを根雪というが、その根雪になる前の雪は、東京で降る雪とさほど変わらない。しいて違いを挙げるとするなら、東京の雪は朧く儚く散りゆく存在であるが、北国の雪は、自分にとって厳しく辛い季節の始まりを意味することである。また、さらに挙げるとするなら、東京では物珍しいという観点で雪を愛でることが多いように感じられるが、北国では、その雪の美しさ自身を愛でる時もあるのだ。兎にも角にも、初雪は北国でも溶けてしまう存在であり、それは東京と変わりはない。先述の「雪の美しさ自身を愛でる」ということも、「降臨」中の雪を愛でるのであり、堕天した雪は、目も当てられない状態になる。そして僕は、その雪に対し懐かしさと申すべきか、それとも「憎しみ」と申すべきか、そのような感情を抱いているのである。堕天した雪は僕と似ている気がしていた。これは気がするだけで、それは全くの直感である。その堕天した雪の姿というのは、雪と「水」の中間のような存在で、かろうじて雪の体裁を保っていたが、その実ほとんどが「水化」しており、彼本来の姿である「結晶の集合体」というものはもう視認できない。そしてその「水」が砂利と融合し、「結晶の集合体」の残党が徐々に「黒い存在」に汚されていっていた。僕は、これを見ていつも自分の現状がいつかこうなってしまうことを予見し、恐れていた。実際そうなってしまった訳ではあるが、この「結晶の集合体」の残党は、僕にとっては「異物」が混入している存在なのである。
さらに、別の要素もそこにはある。それは、「黒い存在」と「結晶の集合体」が混在している状態そのものにも今では嫌気が差す。なぜかということを考えると、もちろん靴が汚れるからという極めて実務的な側面が存在するがそういうことを今述べる所ではない。僕は、これを見ると渦巻きを頭の中で「創造」する。そしてグルグル「結晶」に閉じ込められてしまった感情が脳内に混入してきてしまう。何年前かの冬の後悔、これが矢継ぎ早に僕の脳内で暴れ出す。山手線のようにグルグル回ってくる。僕は、それを止める術を知らない。だから、僕にとってそれは、「遺物」が混入している状態なのである。
今、その存在は僕の近くに存在しない。それは、もちろん蓋をしてしまっているということもある。物理的な距離の問題もある。しかし、今になって「初雪」という言葉を聞いて、そしてこの四角い夜空を見上げてみても、そこにあるのは溶けてしまった「思い出」だけなのかもしれない。それは、良いことなのか悪いことなのかは僕にはわからない。でも、一つだけ言えることがあった。「人は嫌いなことは永遠と記憶してしまう」ということを耳にしたことがある。確かに僕も溢れてくることは自分にとってどれも嫌な記憶であることは間違いなかった。あの灰色結晶体のように、灰色で霧がかかった時代であるというように認識していることは間違いなかった。そして、かつての僕は、その時代を「暗黒時代」として認識していたし、その時代のことを、僕はあの灰色結晶体と同等だと思っていたことも間違いではなかった。しかし、今、「現在」を生きる「僕」にとっては、それ自体が誤りであることに気づいている。
人の認識は霞に千鳥、霧不断の香焚くといへども、来る年雪泥鴻爪なり。
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