一番好きな人
「一番好きな人とは結婚できないのよ」
バイト先のおばちゃんが、妙に説得力のある声で言った。
「旦那さんは一番好きな人じゃなかったんですか?」
まだ大学生だったけれど、思い当たる節があったわたしは、ひやりと心が冷たくなるのを感じながら聞き返した。
「そうね。一番好きな人とは上手くいかなくなっちゃうものなのよ」
おばちゃんは優しいほほ笑みを崩さずに話している。
もちろん、過去の恋人に順番なんて付けたことはないけれど、「あの人」とたった一人を思い浮かべる人は、わたし以外にもいるんじゃないかな。
当時、この少し前に、6年間付き合った人と別れた。ほとんど喧嘩もなく仲は良かったし、いろいろな困難を2人で乗り越えてきたという自信や絆もあった。「大学を卒業したら結婚するんだろうな」とぼんやり思っていたし、何度かそんな話をしたこともあった。
それなのにどういうわけか、自ら離れてしまった。あの時、自分でさえ自分の心が彼から離れていくのが怖かった。
「俺のこともう好きじゃないでしょ」
そう言わせてしまった時には、もう手遅れで。
“一番好きな人とは結婚できない”
ほんとうにそうかな。
でも、そうかもしれない。
休憩中、窮屈なバックヤードでまかないを食べながら「もう一番好きな人と結ばれることはないのかも」と思い、悲しくなったのを覚えている。
* * *
それからしばらくはその言葉をどこかで信じていたけれど、今は「一番好きな人とは結婚できない」と聞いても悲しくならないし、そうは思わなくなった。
どっちが一番だとか、今のほうが好きとか、何を比べてたんだろうって。
あの時わたしとぴったり合っていた人が、今は合わなくなった。それだけのことだと思う。一番、なんてない。
そう思えるようになってからは、もう悲しくない。過去は過去、今は今と切り離して考えられるし、どうせなら今を大事にしたい。過去の思い出はちゃんと自分の中にあれば、それでいい。
どんな過去があっても、今を幸せに生きようとする人でありたい。
そういえば、バイト先のおばちゃんも言っていた。
「今、幸せですか?」
「幸せよ」
まあるい頬を赤くして、とっても幸せそうな顔で。今と向き合っていれば、一番なんてなくなっているのかもしれない。
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