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超越的transzendent/超越論的transzendental



 イマヌエル・カント(1724 享保9 ~1804 享和4/文化1)の用語。



◎カントは人間の認識能力を3段階に分けた。


 ①感性……人間が自分の感覚(≒五感)を通じて事物対象を表象として受け取る能力(直観にもとづく能力)。
 ②悟性……上のごとき感性的直観による表象を統合して、判断へと結び付ける能力。
 ③理性……その判断された諸対象から、さらに推論を重ねて世界の全体像に迫っていく能力。


 さらにカントは、「物自体」なるキーワード(キーコンセプト)を措定する。
 これは、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレスらによって紡がれてきた「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)の概念、また、それを継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」の概念、すなわち、「じっさいに体験することはできず、ただ理性を働かせ、論理を突き詰めることでのみ接近し得る実体/本質」という西洋思想史に特有の伝統的な発想/概念の延長線上にあるもので、それを彼の哲学の枠内で表現したキーワード(キーコンセプト)といえる。
(他の文化圏でこれに似たものとしては、インドの説一切有部等の部派仏教における「ダルマ」(法)がある。)
 「人智の及びがたく、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)によっては捉えられぬもの」、あるいは「《経験》によっては捉えられぬもの」といってもいい。


 《経験》によって捉えられる(経験の対象となりうる)のは、あらかじめ所定の形式(時間、空間、および何らかのカテゴリー)に即して構成されたもののみ。そして、この「構成されたもの」をカントは「現象」と呼ぶ。つまり上で述べたとおり、「物自体」はけっして知覚できないが、しかし人間の「感性」を通じて「現象」としてあらわれる。ということになる。


 このように、「経験可能な領域を超え出ているもの/こと」をカントは「超越的」という(これはぼくたちの語感に照らし合わせてもわかりやすい使い方だろう)。いっぽう彼は、その超越的な事柄の「認識」そのもののありようについて考える自らの哲学的立場を「超越論的観念論」と称した。つまり、カントにおいては、どのようにしてわれわれは「超越的」なるものを「現象」として「経験」し、ひいては「認識」する/できるのか。というプロセスがとても大きな主題になった。ということだ。
 ところで一般に「ある領域を超えてその外にあること」を「超越的」という。今のばあい、「経験の領域を超えてその外にあること」を「超越的」といっている。その反対が「内在的」で、当の領域の圏内にあることを意味する。今のばあいは、経験できる範囲にあるということだ。
 だからこういっていい。「超越論的」とは、「内在的」でも「超越的」でもない、いわばその双方の関係性についての話であり、「超越論的観念論」とは、「内在」のサイドから「超越」の彼方へとかかわる仕方をできるだけ綿密に考えるメソッドである。


 補足)
 「現象」というキーワード(キーコンセプト)を受け継いで発展させたのは同じドイツのフッサール(1859 安政6 ~1938 昭和13)で、彼はその名も「現象学」なる哲学上の一派を打ち立てた。現象学では、「ある対象がわれわれの意識を超えて外部に存在するありかた」が「超越的」と呼ばれ、「そのありかたが主体の意識そのものにどのように構成されるか」という一連の問題が「超越論的」と呼ばれる。


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