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人と人が理解し合える世界へ。「期待」を「希望」に変える。【他力本願】

人と人は理解し合えない。
価値観は人それぞれ。
認め合えればいい。

なんかこんな思い込みありませんか?

そうは言いつつも、ほんとは理解して分かり合いたいし、理解されて分かち合いたい。けど「やっぱりダメだ」って傷つきたくないし、理解し合えないって思ってる方がラクだし、説得するの面倒だし、諦めなきゃ世の中渡って行けなそうだし、正直どうでもいいし。
…ちがうな。本当は私が幸せに生きるために分かち合いの世界であってほしい。共感し合える居心地のいい優しい環境であってほしい。
じゃあ、そこ無理に平和や調和っぽいものに押し込めて諦めずに、しれっと願っちゃわない?理解し合っちゃわない?

「理解し合いたい」という期待から「当然理解し合える」という希望に変えることって、もしかして簡単なんじゃない?

っていうお話です。

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理解し合えない、けど認め合う、ということは「自分と他者は違う」という前提であって、本当の意味で認め合うことではないような気がします。
なんだか「私はここ譲らないけど、あなたの価値観でどうぞ」っていう、諦めや強がりや面倒がりや自己防衛が働いているというか。

人には様々な価値観があり、それに紐ずく感情があり、表現する言葉や行動がある。その表現方法は人それぞれ異なり分かち合えないものです。
けど「理解し合えないであろう」それぞれの表現の奥には、知られることへの怖れであったり、変わりたくない不安であったり、慣れていない恥ずかしさであったり、単純な好き嫌いであったり、自分を守りたい強がりであったり、自分なんてという卑下であったり。外側からは判断できない様々な「根本の想い」が存在しているのです。

一見、攻撃したり無視をしたり、現代の概念では「ダメ」と判断される表現方法の根本を辿っていくと

価値観を守りたい
迷惑かけたくない
秩序を保ちたい
邪魔をしたくない
正しい行いをしたい
傷つけたくない
など

あれ?これ「理解できなくていいよ」という他人への配慮と、「理解されなくていいよ」という自分への配慮だよね。

これって思いやりじゃないの?
何かを犠牲にして何かを守ってるんじゃないの?
全部「何かへの想い」に基づいてるんじゃないの?

すごく雑にまとめちゃうとw
根本は全部自他への愛だと思うのです。

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他力本願

これ「他人の援助や協力をあてにする」と解釈されがちですが、本来「仏の願い(教え)に生かされ力強く生き抜くこと」という意味の親鸞聖人の言葉です。全然ちがうのw

人は無力なのです。
誰かを変えることもできなければ、何かをコントロールすることもできない。まして他人を救うことなど不可能であり、救いたいと思うことはエゴです(エゴが悪いわけではない)。

けど、無力だからこそ、1人では何も変えられないからこそ、ありのままの自分を開いて表現することで他者と繋がり合うことで「同じもの同士」が合わさって大きくなっていく。
自分の特徴を開いて繋がり合うからこそ、依存ではなく信頼し合える仲間と理解し合って素晴らしい価値が広がっていく。

大谷翔平選手だって、活躍できるフィールドがあって、それを伝えてくれる媒介があって、その活躍に感動してくれる人がいてはじめて世界と繋がりますでしょ?

みんな等しくそうなんです。
「理解されたい自分」を外に出すか出さないかなのです。
否定されるかも…受け入れてもらえないかも…失敗するかも…非難されるかも…理解してもらえないかも…1人きりになるかも…。
その恐れに気づいてなお、表現したい!理解してもらえる!その世界はある!私は私のまま生きられる!と信じることを選ぶか選ばないか、そこからなのです。

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とはいえ、表現するって怖いですね。
「なんだ表現して大丈夫だった」を、積み重ねていきたい。

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