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164.ソウルコーチへの道 番外編5 勾玉と胞衣

番外編5 勾玉と胞衣

真実は、抗いがたく、そこに在る。
ひかりの存在。

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先日の満月の日。
ご縁があって、勾玉を買うことができた。
それを創っている作家さんにお会いしたからだ。
そのかたが創る勾玉の形を見るたびに気になっていたので、絶対に何か一つ購入したいと思っていた。

勾玉は、どれもかわいくて、どれも欲しくなって、でも、オンリーワンを選びたくて、ケースから、ひとつひとつ取り出して眺めていると、暗めの色なので、気に留めていなかった勾玉に、赤い部分が見えた。

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手にとると、赤と紫のツートーンで、光のあたりかたによって、不思議な見え方をする。

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(これだ!)

と思った。
丹田のあたりが、反応している。
首からかけると、ものすごい「グラウンディング感」だった。
磁石に引き寄せられるように、身体が地に着く。

(なんて、パワフルなんだろう)

***

たまたま、その日は満月で、勾玉が訪れた日で、セッションの日だった。
私には、メンターのような人がいて、定期的にセッションのようなことをしていただいている。

〈ような〉というのは、知り合ったときは、そうではなかったからだ。

やっていることも、コーチングでもなく、カウンセリングでもなく、ヒーリングでもなく、セラピーでもなく、なんと表せばよいのか、よくわからない。

「えみなさんにみえているのって、肉体のお母さんですか?」

と、不意に言われて、とまどった。

母は3年前に亡くなっている。
母を思うとき、母には姿(かたち)があり、その母を見ている。
あらためて、

(いつの姿だろう?)

と思った。

(何歳?)

若いような、若くないような。
私が小さいときの母でもないし、結婚してからの母でもない。

よく考えてみると、いつの母なのか、わからないのだ。
表情もぼやけている感じ。
髪型や、雰囲気は、毎日見ている遺影の感じ。
母なのだろうか?

……ということを瞬時に考え、「かたちはあります」と答えた。

すると、
「お母さんのかたちのまわりを、たどってください」と言われ、

(?)

意味がわからなくて黙っていたら、

「指でもいいし、マウスで輪郭をたどるみたいでもいいけど、線を引いてみてください」

と言われたので、浮かんでいる母の姿の輪郭を、髪のあたりからなぞっていった。

(母に足があるかどうかを確かめるのだろうか)と思いながら。

***

続いて、

「えみなさんの感じるおかあさんって、その枠の中に入っていますか?」

と言われ、ますます

(???)

「意味がわからない」と答えた。

「肉体のまわりをたどった枠の中に入っているのが、お母さんですか?」
「お母さんかどうかわからないけど……カタチはお母さん。中身があるかどうかわからない」
「えみなさんにとっては、それがお母さんですか?」
「…………」

質問の意図がわからなくて、沈黙していると、

「〝自分”をイメージして、そのまわりに〝枠”をイメージして、たどってみたら、どんな感じですか? それが〝自分”って感じですか?」と言われた。

言われたとおりにやってみた。
中身はともかく、枠は私ではないと感じ、

「枠は〝自分”じゃないです」

と、即答した。

「〝自分”は?」
「〝自分”と思っている〝自分”は、かたちがないです」
「肉体は? 肉体は、かたちがないと思っている部分の、どこにあるのですか?」
「中かもしれないし、別の次元かもしれないけど……。つながっているけど、べつべつにある。二人羽織みたいな感じか、操縦席にいる感じ」

「操縦席はどこにあるのですか?」
「丹田のあたり。グラウンディングするときの途中くらいのところ」
「肉体が枠を感じたとき、心地いいですか?」
「枠は別という感じ」
「枠に入っていないって感じ?」
「入っているけど、別っていう感じ」
「別っていうことは、入っていないということですよね?」

***

「枠の中に入っている感じは、どんな体験ですか?」
「枠の中に入るのは、いや、です」
「肉体があって、枠がなかったら、入れますか?」
「はみでている」
「その感じは、心地いいですか」
「はい」
「それだったら、入れますか?」
「あふれている」
「感じてみてください」
「はい」
「そのまま、お母さんをみてください」

と言われて、母を見てびっくり。
さきほど、形どった「母のかたちをした輪郭」から、「はみだして、あふれて、いっぱいにひろがっているもの」が見えたからだ。
しかも、

(感じる)

びっくりした。
何が起こったのかわからない。

だって、ついさっき、私は、頭に浮かんでいる母の「かたち」に、輪郭を描いたのだ。

それが、自分にも枠を書き、その中に入ろうとしたところ、入れないことがわかり、枠をはずしたら、はみだすしかない自分、あふれている自分を感じ、心地いいと思った。

そうして、

「お母さんを見てください」

と言われて、母のほうを視た瞬間、

〈母の輪郭からはみだして、全身からあふれているもの〉

が観えたのだ。

(仏像の光背のような感じ)

前から、視える人には視えていて、感じるもができたのかもしれないが、私には視えていなかった。

(同期している)

魂と肉体の同期。
私と母の同期。

その瞬間に起こったのは、「笑う」という衝動だった。

セッションの途中で、いきなり笑すなんて、へんだし、失礼だから、必死で止めようとしたけど、笑いの衝動が押し寄せてくる。
頭の片隅で、

(もしかして、この衝動は、「笑う」じゃなくて「泣く」?)

と感じた。
放っておいたら、げらげら笑いだして、そのまま号泣してしまいそうだった。
母のエネルギーを感じたことにびっくり。

涙が勝手に出てくるのだけど、泣きたくない。
ここでは、泣きません、という感じ。

〈お母さんが成仏した〉

と、一瞬思ったが、成仏したのは母ではなく、勝手に作っていた「枠」だとわかった。

(母は、3年前に成仏している)

ねじれが外れた。
お母さんには、叶わない、という気持ち。
抵抗がとれた。
これが、母の本質のエネルギーなのだろうか。

真実は、抗いがたく、そこに在る。
ひかりの存在。

***

二つのミラクルが起きていることがわかった。
一つは、

「肉体とは別だ」と思った存在と、肉体がいっしょにある感覚。

(同期している)
(魂と肉体の同期)

いつのまにか、そういう自分になっていた。そのことに驚く。
グラウンディングの賜物だと、思う。

そして、もう一つは、

(私と母の同期)

これは、勾玉のおかげではないかと、思っている。
持ち帰って、眺めているとき、深い赤だと思ったところが、胎盤のようだと感じたからだ。
紫は母が大好きな色だということにも、思い当たった。

胎児のような、勾玉のかたち。
奇しくも、満月。

最近、女性性に関することをテーマとするかたとのご縁が続いたので、自分の名前に含まれている音 ―「えな」― を感じていた。


「えな(胞衣)」は、胎児を包んでいた羊膜や胎盤など、後産 (あとざん) として体外に排出されるものだという。

長野県にある恵那神社は、天照大神が誕生したときの「えな」を洗い清めて、その地に埋めたという伝説があるそうだ。

「えな」を産める。

天照大神の「えな」だから埋めたのではなく、日本各地で、自宅分娩が行われていたころ、「えな」の扱いは、生まれた子どもの一生に重大な影響を及ぼすと信じられ、儀礼的な風習があったという。

その幾つかを読んだ。
父や母の「えな」は、その地域の作法によって、大切に埋められたのかもしれないと感じた。

私は、結婚も出産も遅かったのに、こういうことには全く無恥だった。
幸か不幸か、実家から徒歩で行ける場所に産婦人科があり、何の迷いもなく、そこで出産した。
見せてほしいといえば、胎盤もへその緒も見せてもらえたと思うのに、残念なことをした。

「えな」は、母体と赤ちゃんがつながっていた証。
胎児のような、勾玉のかたち。
胎盤に張り巡らされる血管と血液循環。

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秘められたミラクルを、満月の夜に、受け取った。

浜田えみな


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